宇和島城
宇和島城址
昭和初期のガイド文
宇和島駅の西南約2km、市内丸之内にあります。鶴島城と呼び、三層天守閣、追手門、上り口門、井戸、倉庫等が完全に遺存し、その他は石塁のみが遺っています。城は戦国時代板島丸串城と称し、西園寺宣久が城主でしたが、安土桃山時代の天正15年(1587年)戸田勝隆に属し、文禄3年(1594年)藤堂高虎がこれを改修して宇和島城と称し、次いで富田知信が城主となりましたが、江戸時代前期の元和元年(1615年)伊達秀宗が居城し、寛文年間(1661~1673年)宗利がこれを改修して維新に至りました。後一時陸軍省所営となった事があります。現存の天守閣の建物は寛文5年(1665年)の造営で三層、屋根本瓦葺、構造丁寧に、江戸時代初期の様式を残し、国宝に指定されています。追手門は脇戸付の櫓門で屋根入母屋造本瓦葺、同じく国宝です。
※底本:『日本案内記 中国・四国篇(初版)』昭和9年(1934年)発行
令和に見に行くなら
- 名称
- 宇和島城
- かな
- うわじまじょう
- 種別
- 見所・観光
- 状態
- 現存し見学できる
- 住所
- 愛媛県宇和島市丸之内
- 参照
- 参考サイト(外部リンク)
日本案内記原文
驛の西南約二粁、市內丸之內にある。鶴島城と呼び、三層天守閣、追手門、上り口門、井戶、倉庫等が完全に遺存し、その他は石壘のみが遺つて居る。城は戰國時代板島丸串城と稱し、西園寺宣久城主たりしが、天正十五年戶田勝隆に屬し、文祿三年藤堂高虎これを改修して宇和島城と稱し、次いで富田知信城主たりしが、元和元年伊達秀宗居城し、寬文年閒宗利これを改修して維新に至つた。後一時陸軍省所營となつた事がある。現存の天守閣の建物は寬文五年の造營で三層、屋根本瓦葺、構造丁寧に、江戶時代初期の樣式を存し、國寶に指定せられて居る。追手門は脇戶附の櫓門で屋根入母屋造本瓦葺、同じく國寶である。