尾道市

尾道市
※現代の景観です。

昭和初期のガイド文

尾道駅所在地。大宝、摩尼、瑠璃の三嶺を背負い、南は幅の狭い海峡を隔てて向島と対し、市街は東西に長く約3.2km、南北に短く約2km、面積は6km²近くあります。商業地にして船舶の出入りが少なくなく、麦、肥料、塩干魚、大豆等を集散し、工業は酢、菓子類、肥料等を製します。この地は古く万葉集に見える玉浦の地で、尾道とは海涯に臨み山脚に沿って往来する「山之尾之道」の意といい、海港として往昔から現れ、鎌倉時代の文治2年(1186年)高野山大塔領となったことがあり、吉野朝の頃は海路のみでなく陸路の要衝となり、室町幕府が明国と交易を開くと、貿易船の出入りがあり、江戸時代となって慶長年間(1596~1615年)浅野氏の封地となり、江戸時代中期の正徳年間(1711~1716年)からは町奉行を置いてこれを治め、問屋市場廻船の商港として知られました。港は現在糸崎と合せて尾道糸崎として開港されています。ここから四国の多度津、新居浜、西条、今治、高浜、長浜等へ定期船の便があります。人口は3万5,000人。

※底本:『日本案内記 中国・四国篇(初版)』昭和9年(1934年)発行
尾道港

令和に見に行くなら

名称
尾道市
かな
おのみちし
種別
見所・観光
状態
現存し見学できる
住所
広島県尾道市
参照
参考サイト(外部リンク)

日本案内記原文

尾道驛所在地。大寶、摩尼、瑠璃の三嶺を負ひ、南は幅の狹い海峽を隔てゝ向島と對し、市街東西に長く約三粁二、南北に短く約二粁、面積は六方粁に近い。商業地にして船舶の出入少からず、麥、肥料、鹽干魚、大豆等を集散し、工業は酢、菓子類、肥料等を製する。この地は古く萬葉集に見ゆる玉浦の地で、尾道とは海涯に臨み山脚に沿ひて往來する「山之尾之道」の意と云ひ、海港として往昔より現はれ、文治二年高野山大塔領となつたことがあり、吉野朝の頃は海路のみでなく陸路の要衝となり、室町幕府が明國と交易を開くや、貿易船の出入するあり、江戶時代に及んで慶長年閒淺野氏の封地となり、正德年閒よりは町奉行を置きてこれを治め、問屋市場廻船の商港として顯はれた。港は今絲崎と合せて尾道絲崎として開港されて居る。こゝから四國の多度津、新居濱、西條、今治、高濱、長濱等へ定期船の便がある。人口三萬五千。

尾道のみどころ