西都原古墳群

西都原古墳群[指定史蹟]
※現代の景観です。

昭和初期のガイド文

妻線妻駅の西北約1km、児湯郡妻町三宅にあり、自動車の便があります。東西2km南北4kmにわたる台地上に存在する大小300基に近い古墳群で、南東部、中部、北部および西部の四区にわけることができます。南東部は前方後円墳が点在し、円墳がその間にあり、中部は開墾され、かつ競馬場が設けられたため古墳の現存するものが少なく鬼の岩屋その他2~3を留めるに過ぎません。北部は円墳が多くあり、西部は男狭穂塚、女挟穂塚の両墳、その他大形墳が残り、かつ、多くは埴輪円筒をともなっています。これらの古墳群は、大正元年(1912年)の頃から東西両帝国大学、宮内省等の学者によって発掘調查され、日本における古墳の学術的研究に一新紀元を劃したものです。当時発掘されたのは約26基ですが、その多数は封土の外部が葺石に覆われて内部に粘土槨を蔵し、遺骸に副葬された遺物には、刀および剣身、鏃、勾玉、管玉、小玉、鏡、斎瓮、鉄甲、馬具等がありました。古墳の総数は男狭穂、女狭穂両墳を除いて282基を数え、円墳は251基、前方後円墳は21基、柄鏡型と呼ばれる前方部が長く幅が同一で柄鏡のような形状を見せるもの8基、方形墳2基があります。現在有名なものを説明すれば次の通りです。

男狭穂塚および女狭穂塚 瓊々杵尊および妃木花開耶姫の御陵と伝え、ともに御陵墓参考地です。男狭穂塚は円墳と柄鏡墳との折衷形にして全長約190m、円丘の高さ約20m、直径約100mあり、女狭穂塚は前方後円墳で全長約170m、2墳が互いにつながって築造されていますが、男狭穂塚の前方部の一部は女狭穂塚の中央隘部のあたりに密接して築造されています。前方部は破壊され、後円部には土塁および内外二重の濠が残っています。女狭穂塚には幅広い濠が巡っています。

男狭穂塚の角にある2個の円墳はかつて110号、111号塚と称されたもので、前者(飯盛塚)からは銅釧のほか玉虫の羽を置いた鏡および埴輪の船が発見され、後者からは鉄短甲および頸鎧が出土しました。また女狭穂塚の角にある方形墳は埴輪円筒が正方形に二重に配列されて発見されたので知られます。

鬼の岩屋古墳 円形墳で段があり兜形となっていて、横穴式石室が開口して、古墳群中にあって異彩を放っています。羨道の長さ6mあまりで幅約1m、玄室の長さ5mに近く、高さ幅とも2.5m、大きな割石で構築されていますが、墳丘の周囲に高さ3mに近い土塁が環状に巡っているのは、全国的にも珍しいものです。

古墳群巡覧のために、妻駅から廻覧自動車の便もあります。県社都萬神社前を過ぎ、御舟塚、逢初川、八尋殿跡、無戸室跡、児湯池等の神代伝説地を左右に見て、高取皇居跡を経て、男狭穂、女狭穂両塚に参拝し、鬼の岩屋に立寄り、王朝時代の古印「児湯郡印」を所蔵する河野家を右手に見て稚児池畔を過ぎ、妻町郷土館を観覧して駅に帰着します。妻町郷土館は旧史蹟研究所の建物で、古墳群から発掘の遺物およびこの地方で発見された石器時代遺物ならびに国分寺瓦等を陳列しています。

※底本:『日本案内記 九州篇(六版)』昭和13年(1938年)発行

令和に見に行くなら

名称
西都原古墳群
かな
さいとばるこふんぐん
種別
見所・観光
状態
現存し見学できる
住所
宮崎県西都市三宅
参照
参考サイト(外部リンク)

日本案内記原文

妻線妻驛の西北約一粁、兒湯郡妻町三宅にあり、自動車の便がある。東西二粁南北四粁に亙る臺地上に存在する大小三百基に近い古墳群で、南東部、中部、北部及西部の四區に分つ事が出來る。南東部は前方後圓墳點在し、圓墳その閒にあり、中部は開墾され、且競馬場が設けられたため古墳の現存するもの少く鬼の岩屋その他二三を留むるに過ぎない。北部は圓墳多く存し、西部は男狹穗塚、女挾穗塚の兩墳、その他大形墳が存し、且つ、多くは埴輪圓筒を伴つて居る。これ等の古墳群は、大正元年の頃から東西兩帝國大學、宮內省等の學者によりて發掘調查せられ、我が國に於ける古墳の學術的硏究に一新紀元を劃したものである。當時發掘せられたのは約二十六基であるが、その多數は封土の外部葺石に覆はれて內部に粘土槨を藏し、遺骸に副葬された遺物には、刀及劍身、鏃、勾玉、管玉、小玉、鏡、齋瓮、鐵甲、馬具等があつた。古墳の總數は男狹穗、女狹穗兩墳を除きて二百八十二基を算へ、圓墳は二百五十一基、前方後圓墳は二十一基、柄鏡型と呼ばれる前方部長く幅同一にして柄鏡の如き形狀を呈するもの八基、方形墳二基がある。今著しいものを說明すれば左の通りである。

男狹穗塚及女狹穗塚 瓊々杵尊及妃木花開耶姬の御陵と傳へ、共に御陵墓參考地である。男狹穗塚は圓墳と柄鏡墳との折衷形にして全長約一九〇米、圓丘の高さ約二〇米、徑約一〇〇米あり、女狹穗塚は前方後圓墳で全長約一七〇米、二墳相接して築造せられるが、男狹穗塚の前方部の一部は女狹穗塚の中央隘部の邊に密接して築造せられて居る。前方部破壞せられ、後圓部には土壘及內外二重の湟が遺つて居る。女狹穗塚には幅廣き湟が環つて居る。

男狹穗塚の角にある二個の圓墳は會て百十號、百十一號塚と稱せられたもので、前者(飯盛塚)からは銅釧の外玉蟲の翅を置いた鏡及埴輪の船が發見され、後者からは鐵短甲及頸鎧が出土した。また女狹穗塚の角なる方形墳は埴輪圓筒が正方形に二重に配列せられて發見せられたので知られる。

鬼の岩屋古墳 圓形墳で段を有し兜形をなし、橫穴式石室が開口して、古墳群中にありて異彩を放つて居る。羨道長さ六米餘で幅約一米、玄室長さ五米に近く、高幅共二米半、大なる割石で以て構築されて居るが、墳丘の周圍に高三米に近い土壘が環狀に繞つて居るのは、全國的にも類例が乏しい。

古墳群巡覽のために、妻驛から廻覽自動車の便もある。縣社都萬神社前を過ぎ、御舟塚、逢初川、八尋殿址、無戶室址、兒湯池等の神代傳說地を左右に見て、高取皇居址を經て、男狹穗、女狹穗兩塚に參拜し、鬼の岩屋に立寄り、王朝時代の古印「兒湯郡印」を所藏する河野家を右手に見て稚兒池畔を過ぎ、妻町鄕土館を觀覽して驛に歸着する。妻町鄕土館は舊史蹟硏究所の建物で、古墳群から發掘の遺物及この地方發見にかかる石器時代遺物竝に國分寺瓦等を陳列して居る。

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