長保寺

長保寺[天臺宗]
※現代の景観です。

昭和初期のガイド文

下津駅の東2km、浜中村上にあります。平安時代の長保年間(999~1004年)の創建で、室町時代の応永年中(1394~1428年)真言宗に改め、七堂伽藍を具備して子院も多くありましたが、後に荒廃していたのを、江戸時代前期の寛文6年(1666年)天台宗に復し、同11年(1671年)国主頼宣が没した際その墓所をこの境内に選び、その後累代の墓所となり面目を改めました。現在は本堂、塔婆、大門、鎮守堂等があり、寺域は広大です。

大門(仁王門)[国宝] 寺伝に室町時代の嘉慶2年(1388年)の建立といい三間一戸の楼門で屋根は入母屋造本瓦葺です。屋蓋の広さと軒下の広さ、廻椽の出など、バランスよく、安定優雅の観があり、各部に和様と唐様の手法を融和させ、室町初期の建築美が認められます。

本堂(釈迦堂)[国宝] 門を入って1kmあまり、一段高所に建っています。鎌倉時代の延慶4年(1311年)の建立といい、五間五面、単層屋根入母屋造本瓦葺で、外観は非常に雄壮、各部によく鎌倉時代の手法が見て取れます。内陣後方には精巧な須弥壇があり、壇上に本尊釈迦像を安置した家形厨子があります。須弥壇も厨子も本堂と同時の鎌倉時代の建築と認められ、優れた唐様の手法が見られます。

多宝塔[国宝] 本堂の東南に近く建ち、本堂と同時の建築と認められ、下層三間三面、屋根は各層とも本瓦葺です。全体の形態から上層の亀腹がやや小さく、円筒は細く、上層の屋根もまた過小の感がありますが、細部の手法その他鎌倉末期の特徴をよく発揮しています。

鎮守堂[国宝] 多宝塔の北方、一段小高い所にあります。一間社流造の小屋ですが、各部の手法に本堂、多宝塔と同じく、鎌倉後期建築の面影があります。

寺宝の絹本著色仏涅槃図1幅は国宝です。

※底本:『日本案内記 近畿篇 下(初版)』昭和8年(1933年)発行

令和に見に行くなら

名称
長保寺
かな
ちょうほうじ
種別
見所・観光
状態
現存し見学できる
住所
和歌山県海南市下津町上689
参照
参考サイト(外部リンク)

日本案内記原文

下津驛の東二粁、濱中村上にある。長保年閒の創建で、應永年中眞言宗に改め、七堂伽藍を具備して子院も多かつたが、後荒廢して居たのを、寬文六年天臺宗に復し、同十一年國主賴宣の薨去の際その瑩域をこの境內に擇び、その後累代の墓所となり面目を改めた。今に本堂、塔婆、大門、鎭守堂等があり、寺域廣大である。

大門(仁王門)[國寶] 寺傳に嘉慶二年の建立と云ひ三閒一戶の樓門で屋根は入母屋造本瓦葺である。屋蓋の廣さと軒下の廣さ、廻椽の出など、權衡よく、安定優雅の觀があり、各部に和樣と唐樣の手法を融和せしめ、室町初期の建築美が認められる。

本堂(釋迦堂)[國寶] 門を入つて一粁餘、一段高所に建つて居る。延慶四年の建立と云ひ、五閒五面、單層屋根入母屋造本瓦葺で、外觀頗る雄壯、各部によく鐮倉時代の手法が看取される。內陣後方には精巧な須彌壇があり、壇上に本尊釋迦像を安置した家形厨子がある。須彌壇も厨子も本堂と同時の鐮倉時代の建築と認められ、優れた唐樣の手法が見られる。

多寶塔婆[國寶] 本堂の東南に近く建ち、本堂と同時の建築と認められ、下層三閒三面、屋根は各層とも本瓦葺である。全體の形態から上層の龜腹が稍小く、圓筒細く、上層の屋根もまた過小の感があるが、細部の手法その他鐮倉末期の特徵をよく發揮して居る。

鎭守堂[國寶] 多寶塔の北方、一段小高い所にある、一閒社流造の小屋であるが、各部の手法に本堂、多寶塔と同じく、鐮倉後期建築の面影がある。

寺寶の絹本著色佛涅槃圖一幅は國寶である。

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