高城跡
高城城址
昭和初期のガイド文
高鍋駅の西北約2km、児湯郡木城村にあり、自動車の便があります。西南に小丸川を帯び、3面は崖壁となり、西北は原野に連なり、空濠の跡があります。安土桃山時代の天正5年(1577年)以来島津氏の部将山田信介有信が守将としてこの城にあり、同6年(1578年)大友宗麟の来攻に際しよくこれを守り、島津義久自らが後詰をするにおよんで大友軍はついに退却しました。同15年(1587年)豊臣秀吉の九州征伐に、羽柴秀長の軍が大挙して来攻しましたが、有信は少ない兵でよく防守し島津本軍が秀長に下るにおよびはじめて城を開いたといいます。
※底本:『日本案内記 九州篇(六版)』昭和13年(1938年)発行
令和に見に行くなら
- 名称
- 高城跡
- かな
- たかじょうあと
- 種別
- 見所・観光
- 状態
- 現存し見学できる
- 住所
- 宮崎県児湯郡木城町高城
- 参照
- 参考サイト(外部リンク)
日本案内記原文
高鍋驛の西北約二粁、兒湯郡木城村にあり、自動車の便がある。西南に小丸川を帶び、三面は崖壁をなし、西北は原野に連なり、空濠の址がある。天正五年以來島津氏の部將山田信介有信守將としてこの城に在り、同六年大友宗麟の來攻に際しよくこれを保ち、島津義久自ら後詰をなすに及んで大友軍逐に退卻した。同十五年豐臣秀吉の九州征伐に、羽柴秀長の軍大舉して來攻したが、有信寡兵を以て能く防守し島津本軍が秀長に降るに及び始めて城を開いたと云ふ。