文昭院霊廟

德川六代將軍靈廟
※現代の景観です。

昭和初期のガイド文

増上寺本堂の北にあり、六代将軍文昭院家宣の霊廟で、江戸時代中期の正徳3年(1713年)の建築です。おおまかな建築配置は本殿、相ノ間、拝殿、唐門、水屋、鐘楼、勅額門および二天門を備えた霊廟と、その後方に宝塔、拝殿と唐門を備えた墓所があります。霊廟の拝殿は七間三面入母屋造銅瓦本葺で、正面に三間の向拝があります。向拝の柱は角柱で梅樹の彫刻があり、拝殿の柱はすべて漆箔の丸柱ですが、外部は剥落してほとんど全部下地の朱塗が露出しています。長押上には漆箔を施した牡丹に唐獅子の彫刻を嵌装し、桝組は繧繝彩色になっています。内部の奥左右三間の柱間羽目には、漆箔地に極彩色の大なる唐獅子を描き、欄間には花卉、島類の精巧な彫刻を嵌装し、格天井の各間に飛竜を描き、内外とも華麗なる装飾に満ちています。相ノ間の装飾は拝殿とほぼ同様です。本殿は三間三面入母屋造、銅瓦本葺です。漆箔の丸柱を建て、長押上各部に極彩色を施して華麗な装飾を加え、内陣には六代将軍の厨子のほかに、十二代将軍家慶、十四代将軍家茂および十四代将軍奥方静寛院宮の厨子も安置されています。六代将軍の墓は青銅製の宝塔で、霊廟の後方から仕切門を過ぎ、拝殿を経て石段を登って到達します。十四代将軍、同奥方、十二代将軍の墓はこれに並んで北隣にあります。

※底本:『日本案内記 関東篇(初版)』昭和5年(1930年)発行

令和に見に行くなら

名称
文昭院霊廟
かな
ぶんしょういんれいびょう
種別
見所・観光
状態
現存しない
備考
現在の東京プリンスホテルの敷地にあたり、昭和20年(1945年)の東京大空襲により焼失しています。墓所としては増上寺安国殿裏の徳川家墓所へ改葬されています。

日本案内記原文

增上寺本堂の北にあり、六代將軍文唱院家宣の靈廟で、正德三年の建築である。その大體の建築配置は本殿、相ノ閒、拜殿、唐門、水屋、鐘樓、敕額門及二天門を具備した靈廟と、その後方に寶塔、拜殿及唐門を備へた墓所がある。靈廟の拜殿は七閒三面入母屋造銅瓦本葺で、正面に三閒の向拜を附す。向拜の柱は角柱で梅樹の彫刻があり、拜殿の柱はすべて漆箔の丸柱であるが、外部は剥落して殆ど全部下地の朱塗が露はれて居る。長押上には漆箔を施した牡丹に唐獅子の彫刻を嵌裝し、桝組は繧繝彩色になつて居る。內部の奧左右三閒の柱閒羽目には、漆箔地に極彩色の大なる唐獅子を描き、欄閒には花卉、島類の精巧なる彫刻を嵌裝し、格天井の各閒に飛龍を描き、內外とも華麗なる裝飾に充されて居る。相ノ閒の裝飾は拜殿とほゞ同樣である。本殿は三閒三面入母屋造、銅瓦本葺である。漆箔の丸柱を建て、長押上各部に極彩色が施して華麗なる裝飾を加へ、內陣には六代將軍の厨子の外に、十二代將軍家慶、十四代將軍家茂及十四代將軍裏方靜寬院宮の厨子も安置されて居る。六代將軍の墓は靑銅製の寶塔で、靈廟の後方より仕切門を過ぎ、拜殿を經て石段を登つて達せられる。十四代將軍、同裏方、十二代將軍の墓はこれに竝んで北鄰にある。

芝・麻布・品川のみどころ