仙台市

仙臺市
※現代の景観です。

昭和初期のガイド文

宮城県の中部に位置し、北西南の三方に丘陵を廻らし、東の面だけ平野となり、広瀬川は市の西南部を流れています。安土桃山時代の慶長5年(1600年)以来伊達氏六十余万石の城下として明治初年(1868年)におよびました。廃藩後は県治の中心となりまた師団を置かれ、帝国大学その他高等の諸学校の創設を見、商工業盛んに行われ、今や人口約16万5,000人の大都市となりました。

伊達氏がここに築城する以前は宮城野に続く荒涼とした原野で国分荘と呼ばれ鎌倉時代の初め千葉氏が領し後国分氏の領地でした。天正5年(1573年)伊達政宗の叔父盛重は国分氏の養子となりましたが政宗と不和を生じ戦い敗れて没落しました。政宗は天正19年(1591年)以来玉造郡岩出山城にいましたが、慶長5年青葉山に築城を企て、同7年(1602年)に竣工しました。築城と同時に市街を整備し街区およそ百を配置し従来千代と呼ばれていた名称を改めて仙台としました。その市街は次第に拡張されましたが、この最初の配置は大体において現在まで維持され芭蕉の辻を中心として四方に連なっています。築城と同時に神社寺院で移転あるいは復興されたものも少なくなく、大崎八幡神社は岩出山から移され、薬師堂は国分寺跡に再興されました。ともに慶長年間の建物で特に大崎八幡神社のような社は今に壮大な建築の美を発揮しています。

※底本:『日本案内記 東北篇(初版)』昭和4年(1929年)発行

令和に見に行くなら

名称
仙台市
かな
せんだいし
種別
見所・観光
状態
現存し見学できる
住所
宮城県仙台市
参照
参考サイト(外部リンク)

日本案内記原文

宮城縣の中部に位し、北西南の三方に丘陵を廻らし、東の面だけ平野をなし、廣瀨川は市の西南部を流れて居る。慶長五年以來伊達氏六十餘萬石の城下として明治初年に及んだ。廢藩後は縣治の中心となりまた師團を置かれ、帝國大學その他高等の諸學校の創設を見、商工業盛に行はれ、今や人口約十六萬五千の大都市となつた。

伊達氏がこゝに築城する以前は宮城野につゞく荒涼たる原野で國分莊と呼ばれ鐮倉時代の初め千葉氏が領し後國分氏の領地であつた。天正五年伊達政宗の叔父盛重は國分氏の養子となつたが政宗と不和を生じ戰ひ敗れて沒落した。政宗は天正十九年以來玉造郡岩出山城に居たが、慶長五年靑葉山に築城を企て、同七年に竣工した。築城と同時に市街を經營し街衢凡そ百を配置し從來の名稱千代を改めて仙臺とした。その市街は漸次擴張されたが、この最初の配置は大體に於て現今まで維持され芭蕉の辻を中心として四方に連つて居る。築城と同時に神社寺院の或は移轉され或は復興されたものも少くなく、大崎八幡神社は岩出山から移され、藥師堂は國分寺址に再興された。共に慶長年閒の建物で特に大崎八幡神社の如きは今に輪奐の美を發揮して居る。

仙台のみどころ