屋島

屋島[指定史蹟・天然記念物]
※現代の景観です。

昭和初期のガイド文

四国水力電車屋島登山口下車、高松の東内海に突出する火山台地で、屋島神社前から台上までケーブルの便があります。台地上は広くかつ平坦で四周絶壁となり、あたかも屋梁の形となって、南北に長く延びて自ら南嶺および北嶺に分かれています。東麓は有名な源平の古戦場で、内海の景勝地を占めて風光にすぐれ、眺望のよさはほかに比類がないといいます。南嶺にはやや中央に屋島寺があり、その西に獅子の霊巌、東に談古嶺の景勝があり、北嶺にはその北端に遊鶴亭の景勝があり、台上一帯は平坦な小松原に廻遊道路を通じて巡覧できるようになっています。

屋島は天智天皇時代屋島城を築いた際の旧跡で、時代を下ると源平二氏争覇の古戦場として有名です。平安時代の寿永2年(1183年)閏10月平宗盛が安徳天皇を奉じて筑紫からここに移ると、行宮を造り将士の陣営を建てましたが、平家の公卿はまずこの地の六万寺に入り、皇居がまだ完成しない間、この寺を仮皇居としました。西に設けた総門の遺跡には現在碑が建っています。元暦2年(1185年)2月源義経が牟礼を焼き平軍はついに海に逃れ、同年3月長門国壇の浦の海上に合戦あって平軍は敗滅しました。行宮跡および陣営跡は安徳天皇社およびその付近の地と称し、佐藤次(継)信墓、菊王丸墓等当時の旧跡が多く残ります。なお、屋島西麓の浦生の東に屋島城の古石塁と称するものが残存し、また北方海中に突出する山角の長崎には江戸時代末期の文久年間(1861~1864年)の砲塁跡があります。

※底本:『日本案内記 中国・四国篇(初版)』昭和9年(1934年)発行

令和に見に行くなら

名称
屋島
かな
やしま
種別
見所・観光
状態
現存し見学できる
住所
香川県高松市屋島東町
参照
参考サイト(外部リンク)

日本案内記原文

四國水力電車屋島登山口下車、高松の東內海に突出する火山臺地で、屋島神社前から臺上までケーブルの便がある。臺地上は廣く且つ平坦で四周絕壁をなし、恰も屋梁の形をなし、南北に長く延びて自ら南嶺及北嶺に分たれて居る。東麓は有名な源平の古戰場であり、內海の形勝地を占めて風光勝れ、眺望の佳他に比類なしと云ふ。南嶺には稍々中央に屋島寺があり、その西に獅子の靈巖、東に談古嶺の勝があり、北嶺にはその北端に遊鶴亭の勝があり、臺上一帶平坦な小松原に廻遊道路を通じて巡覽に便して居る。

屋島は天智天皇時代屋島城を築いた際の舊跡で、降りては源平二氏爭霸の古戰場として有名である。壽永二年閏十月平宗盛安德天皇を奉じて筑紫よりこゝに移るや、行宮を營み將士の陣營を建てたが、平家の公卿先づこの地の六萬寺に入り、皇居未だ成らざる閒、この寺を以て假皇居となした。西方に設けた總門の遺址には今碑が建つて居る。元曆二年二月源義經牟禮を燒き平軍遂に海に浮び、同年三月長門國壇の浦の海上に合戰ありて平軍敗滅した。行宮址及陣營址は安德天皇社及その附近の地と稱し、佐藤次(繼)信墓、菊王丸墓等當時の舊跡が多く存する。尙、屋島西麓の浦生の東に屋島城の古石壘と稱するもの殘存し、また北方海中に突出する山角の長崎には文久年閒の砲壘址が存する。

屋島・八栗のみどころ