大分市
大分市
昭和初期のガイド文
西大分、大分、南大分3駅所在地。東西約5km、南北5.5kmあまり、面積おおよそ20kmあります。丘陵は西部から中部にかけてあるのみで、地勢はおおむね平坦、東境に大分川、中部に毘沙門川が流れています。この地は室町時代の永禄年間(1558~1570年)大友義鑑が古国府の地に築いたことにはじまり、宗麟(義鎮)は覇業をなし、西洋交化を輸入し、外国貿易を営み、非常に栄えたな時代がありましたが、安土桃山時代の文禄2年(1593年)大友氏が滅んで廃城となりました。慶長年間(1596~1615年)、福原右馬助直高が、居城を旧城址の北に築営してから府内城と称され、城主はしばしば交替しましたが、江戸時代前期の万治元年(1658年)以後は大給氏の城下として明治維新におよびました。濠、石塁、櫓、楼門等が残っています。昭和7年(1932年)の生産は約1,100万円、その9割は綿糸、蚕糸を主とする工産が占めています。人口は6万1,000人。
※底本:『日本案内記 九州篇(六版)』昭和13年(1938年)発行
令和に見に行くなら
- 名称
- 大分市
- かな
- おおいたし
- 種別
- 見所・観光
- 状態
- 現存し見学できる
- 住所
- 大分県大分市
- 参照
- 参考サイト(外部リンク)
日本案内記原文
西大分、大分、南大分三驛所在地。東西約五粁、南北五粁半餘、面積凡そ二〇粁ある。丘陵は西部から中部にかけて存するのみで、地勢槪ね平坦、東境に大分川、中部に毘沙門川が流れて居る。この地は永祿年閒大友義鑑が古國府の地に築いたのに始まり、宗麟(義鎭)は霸業を成し、泰西交化を輸入し、外國貿易を營み、頗る股盛な時代があつたが、文祿二年大友氏滅んで廢城となつた。慶長年閒、福原右馬助直高、居城を舊城址の北に築營してから府內城と稱せられ、城主屢々交替したが、萬治元年以後は大給氏の城下として明治維新に及んだ。濠、石壘、櫓、樓門等が遺つて居る。昭和七年の生產約一千一百萬圓、その九割は綿絲、蠶絲を主とする工產が占める。人口六萬一千。