佐賀関製錬所

佐賀關製鍊所
※現代の景観です。

昭和初期のガイド文

佐賀関町にあります。工場は市街に接して約43万m²を占め、背後は遠見山を背負い、前面には上浦の港湾を控えています。大正5年(1916年)創業、日本鉱業の経営です。原料鉱石は金銀鉱および銅鉱等で、その主要鉱山は大分県の佐賀関、馬山、鹿児島県の春日、宝迫、徳島県の東山、三縄、高知県の白滝、兵庫県の竹野、沖ノ浦等の諸鉱山です。

鉱石は多く海運によって搬入され、熔鉱炉、コンバーターを経て、品位約99%の含金銀粗銅を得、電解工場に送って、銅および副産物の丹礬と硫酸ニッケルを回収します。熔鉱炉は一昼夜の熔鉱量350トンのもの4基、コンバーターはピアース・スミス型、一昼夜の取扱鉱量80トンのもの2基を備えています。各炉からの排煙は全長353.5m、断面積55m²の登り煙道を経て大煙突に至っています。この大煙突は高さ167.4m、基部内径11.5m、頂上内径8m、下底から45.7mまでは二重円筒です。電解槽は504槽、一昼夜の電銅製出能力は約50トンです。熔澱炉および分銀炉各1個を備え、原銀板は石器製電槽12個で電解して電気銀と金澱物に分けられ、金澱物はさらに硝子製電槽6個で電解精製し、その副産物としては白金パラジウムを回収します。この精製された銀および金は平均品位99.98%以上です。

従業員943人、昭和8年(1933年)の産額は金4.720トン11,457,736円、銀34.624トン1,467,040円、銅9,100トン6,429,380円。

※底本:『日本案内記 九州篇(六版)』昭和13年(1938年)発行

令和に見に行くなら

名称
佐賀関製錬所
かな
さがのせきせいれんじょ
種別
見所・観光
状態
現存し見学できる
住所
大分県大分市佐賀関3-3382
参照
参考サイト(外部リンク)

日本案内記原文

佐賀關町にある。工場は市街に接して約四、三〇〇アールを占め、背後は遠見山を負ひ、前面には上浦の港灣を控へて居る。大正五年創業、日本鑛業會社の經營である。原料鑛石は金銀鑛及銅鑛等で、その主要鑛山は大分縣の佐賀關、馬山、鹿兒島縣の春日、寶迫、德島縣の東山、三繩、高知縣の白瀧、兵庫縣の竹野、沖ノ浦等の諸鑛山である。

鑛石は多く海運に依つて搬入され、熔鑛爐、コンバーターを經て、品位約九九%の含金銀粗銅を得、電解工場に送つて、銅及副產物の丹礬と硫酸ニツケルを回收する。熔鑛爐は一晝夜の熔鑛量三五〇瓲のもの四基コンバーターはピアース・スミス型一晝夜の取扱鑛量八〇瓲のもの二基を備ふ。各爐からの排煙は全長五三五、三米、斷面積五五平方米の登り煙道を經て大煙突に至つて居る。この大煙突は高さ一六七、四米、基部內徑一一、五米、頂上內徑八米、下底から四五、七米までは二重圓筒である。電解槽は五〇四槽、一晝夜の電銅製出能力は約五〇瓲である。熔澱爐及分銀爐各一個を備へ、原銀板は石器製電槽一二個にて電解して電氣銀と金澱物に分ち、金澱物は更に硝子製電槽六個にて電解精製し、その副產物としては白金パラヂウムを回收する。この精製された銀及金は平均品位九九%九八以上である。

從業員九四三人昭和八年の產額は金四、七二〇瓲一一、四五七、七三六圓、銀三四、六二四瓲一、四六七、〇四〇圓、銅九、一〇〇瓲六、四二九、三八〇圓。

大分のみどころ