寿都津軽陣屋跡

壽都津輕陣屋址
※現代の景観です。

昭和初期のガイド文

寿都鉄道寿都駅の東0.5km、寿都郡寿都町大字開運町にあります。海岸からは300m。西南に山を背負い、東西約140m、南北約100mの長方形となっていて、東、北、西の三方は土塁を築き、南は丘陵を切崩して壁としています。

江戸時代末期の安政2年(1855年)幕府は再び蝦夷地を直轄し、同年4月仙台、秋田、南部、津軽、松前の5藩に命じて土地を分けて警備させると、津軽藩に対しては函館千代ヶ岱から東の恵山岬まで、さらに乙部村から北の西蝦夷地、神威岬までの警備を命じ、本陣屋を函館千代ヶ岱に、出張陣屋を寿都、島小牧、棄木の3か所に指定しました。同年10月千代ヶ岱の陣屋が落成したのに続いて、3年6月寿都陣屋が落成し、以来維新の際まで物頭以下約100名がここに駐屯しました。陣の跡は現在寿都小学校の運動場となっていて、土塁の中腹は旧状を破壊されていて、北・西隅にある出丸の内部は耕作され畑となっています。

※底本:『日本案内記 北海道篇(五版)』昭和11年(1936年)発行

令和に見に行くなら

名称
寿都津軽陣屋跡
かな
すっつつがるじんやあと
種別
見所・観光
状態
現存しない
備考
当時は土塁の一部が見られたようですが、現在はそれも残っていません。現在跡地は寿都町総合文化センターウィズコムとなっています。

日本案内記原文

壽都鐵道壽都驛の東半粁、壽都郡壽都町大字開運町にある。海岸を距る三〇〇米。西南に山を負ひ、東西約一四〇米、南北約一〇〇米の長方形をなし、東、北、西三方は土壘を築き、南方は丘陵を切崩して壁となして居る。

安政二年幕府再び蝦夷地を直轄し、同年四月仙臺、秋田、南部、津輕、松前の五藩に命じて地を別つて警衞せしむるや、津輕藩に對しては箱館千代ケ岱より東方惠山岬まで竝に乙部村より北方西蝦夷地神威岬までの警衞を命じ、本陣屋を箱館千代ケ岱に、出張陣屋をば壽都、島小牧、棄木の三場所に指定した。同年十月千代ケ岱の陣屋が落成したのに續きて、三年六月壽都陣屋落成し、爾來維新の際まで物頭以下約百名がこゝに駐屯した。陣址は今壽都小學校の運動場となり、土壘の中腹は舊狀を破壞せられ北、西隅にある出丸の內部は耕して疏菜を作つて居る。

二股・黒松内のみどころ