称名寺

稱名寺[眞言律宗]
※現代の景観です。

昭和初期のガイド文

横浜市内電車杉田停留場の南8km、横須賀線逗子駅の北約8km、ともに付近まで自動車の便があります。金沢村称名寺の海浜に近く、背後に丘陵を負う景勝地にあり、当寺は金沢実時の本願によりその子顕時が審海上人を開山とし、亀山天皇の時に勅願寺となったお寺です。後に鎌倉時代の元弘3年(1333年)第三湛睿律師が結界の作法を行った際に作った図絵が現在国宝となっていますが、それによると門内に池があり、池の向こうに金堂、講堂、方丈、両界堂、池の左に本堂、その右に五重塔などあって、往時は大いに栄えたと知られます。建築物で今日に残っているものはまったくありませんが、結界の跡は今もなお往時の規模がよくわかるもので、史蹟に指定されています。金沢氏は実時以来学問を好み書籍を蒐集したことに加え、代々の住持に学僧が多かったこともあり、この寺には多数の珍書が蔵書され、後には金沢文庫の名が世に広く知られるようになり、金沢文庫の黒印の入った珍籍が御所を始め内閣文庫や諸家に伝えられています。

弥勒菩薩立像[国宝] 本堂内に安置されています。木造で高さ蓮座とも約2mあまり、寄木造、玉眼、蓮枝を持った立像で、仏身には漆箔を施し、天衣には截金で華麗な花文、雷文などの装飾を施しています。金銅透彫の宝冠を戴き胸間に瓔珞をかけ、偉容堂々としています。「建治三年三月三十一日」の墨書があります。

十一面観音立像[国宝] 本堂に安置されています。寄木造、玉眼、彩色、高さ1.9m、本尊弥勒像と作風がよく似ていて鎌倉末期の作です。

釈迦如来立像[国宝] 釈迦堂に安置されています。寄木造、高さ約1.5m、嵯峨清涼寺式の立像で、わずかながらところどころに截金彩色が残っているのが珍しいものです。胎内に鎌倉時代の徳治2年(1307年)の墨書があるとされます。

金沢氏および開山審海上人以下代々の墓 金沢氏の墓は裏山の中腹にあり、大きな宝篋印塔と大小の五輪塔が5基並んでいます。そのうち宝篋印塔は金沢実時の墓と伝わります。開山審海上人以下歴代の墳墓は寺の西裏にあり、いずれも無銘の五輪塔です。両墓域は現在史蹟に指定されています。

  • 宝物
  • 金沢実時、顕時、貞時、貞将、画像[国宝]四幅 絹本著色、東京帝室博物館出陳 この寺が後援者である金沢氏四代の画像を所蔵していることはゆかしいことです。そのなかで実時、頼時父子は法体、貞顕、貞将父子は烏帽子、狩衣姿として描かれ、前二者の方が簡潔で後の二者はやや硬い表現となっています。描写年代も世代とともに後年のものとなります。鎌倉時代は肖像画の全盛時代でしたがこれらの肖像はその代表的遺品です。
  • 十二神将画像[国宝]十二幅 絹本著色 東京帝室博物館出陳
  • 称名寺伽藍古図[国宝]一枚 紙本 鎌倉時代の元亨3年(1323年)2月の裏書があります。東京帝室博物館出陳
  • 愛染明王坐像[国宝]一体 厨子入金属製 鎌倉時代の永仁5年(1297年)2月27日の銘があります。鎌倉国宝館出陳
  • 円覚経[国宝]二巻 紙本墨書、室町時代の正慶2年(1333年)3月金沢貞観筆。東京帝室博物館出陳
  • 文選李善注(残欠)[国宝]十九本 紙本墨書
  • 明儒願文集[国宝]一冊 紙本墨書 表紙に湛睿とあります。藤原資実や菅原為長の作った諷誦願文を集めたものでわずか7篇ですがいずれもみな歴史的価値の高いものばかりです。湛睿は鎌倉末からこの寺に住持した学僧で書写年代も推定されます。
  • 銅鐘[国宝]一口 文永己巳仲冬7日の旧銘に正安辛丑仲和9日の改鋳銘があります。金沢実時がこの寺を創建し、鎌倉時代の文永6年(1269年)父母の菩提のために鋳造させた梵鐘が実時の没後正応年間に失われたので、その子顕時が正安3年(1301年)に再鋳したのがこの鐘で、新旧両銘が残っていることにその想いが伝わります。金沢文庫本の奥書で有名な人宋比丘円種が新銘を作り宋僧慈洪がこれを書き、開山審海上人が生存中事にあたったもので、実時父子の好学の状況を示すとともに寺の由緒を知るために重要な資料です。
  • 洋書 約三百冊 憲法起草当時、伊藤博文が参考としたものです。
※底本:『日本案内記 関東篇(初版)』昭和5年(1930年)発行
北条顕時像(称名寺) 称名寺古図

令和に見に行くなら

名称
称名寺
かな
しょうみょうじ
種別
見所・観光
状態
現存し見学できる
住所
神奈川県横浜市金沢区金沢町212-1
参照
参考サイト(外部リンク)

日本案内記原文

橫濱市內電車杉田停留場の南八粁、橫須賀線逗子驛の北約八粁、共に附近まで自動車の便がある。金澤村稱名寺の海濱に近く、後に丘陵を負へる勝景の地にあり、當寺は金澤實時の本願によりその子顯時が審海上人を開山とし、龜山天皇の時敕願寺となつた寺である。後元弘三年第三湛睿律師が結界の作法を行つた時作つた圖繪が今國寶となつて居るが、それによると門內に池があり、池の向に金堂、講堂、方丈、兩界堂、池の左に本堂、その右に五重塔婆などあつて、往時盛大であつたことが知られる。その建築物の今日に存するものは全くないのであるが、結界址は今尙往時の規模の徵すべきものを存し、史蹟に指定されて居る。金澤氏は實時以來學問を好み、書籍を蒐集したのと、世代の住持に學僧が多かつたために、當寺には多數の珍書が藏せられ、後には金澤文庫の名が世に著聞するに至り、金澤文庫の黑印ある珍籍が遺存して、御府を始め內閣文庫及諸家の祕庫に傳へられて居る。

彌勒菩薩立像[國寶] 本堂內に安置されて居る。木造で高さ蓮座共約二米餘(七尺)寄木造、玉眼、蓮枝を持てる立像で、佛身には漆箔を施し、天衣には截金で華麗な花文、雷文などの裝飾を施して居る。金銅透彫の寶冠を戴き胸閒に瓔珞をかけ、偉容堂々たるものがある。□□□□□には「建治三年三月三十一日」の墨書がある。

十一面觀音立像[國寶] 本堂に安置されて居る。寄木造、玉眼、彩色、高さ一米九(六尺三寸七分)本尊彌勒像と作風相近似し鐮倉末期の作である。

釋迦如來立像[國寶] 釋迦堂に安置されて居る。寄木造、高さ約一米半(五尺)嵯峨淸涼寺式の立像で、僅かながら所々に截金彩色が殘つて居るのが珍しい。胎內に德治二年の墨書があると云ふ。

金澤氏及開山審海上人以下世代墓 金澤氏の墓は裏山の中腹にあり、大なる寶篋印塔と大小の五輪塔が五基竝んで居る。そのうち寶篋印塔は金澤實時の墓と傳へて居る。開山審海上人以下歷代の墳墓は寺の西裏にあり、何れも無銘の五輪塔である。兩墓域は今史蹟に指定されて居る。

  • 寶物
  • 金澤實時、顯時、貞時、貞將、畫像[國寶]四幅 絹本著色、東京帝室博物館出陳 本寺が其大檀越である金澤氏四代の畫像を藏することは眞に床しいことである。中で實時、賴時父子は法體、貞顯、貞將父子は烏帽子、狩衣姿に描かれ、前二者の方が簡潔で後の二者は稍硬直である。描寫年代も世代と共に降つて居る。鐮倉時代は肖像畫の全盛時代であつたがこれらの肖像はその代表的遺品である。
  • 十二神將畫像[國寶]十二幅 絹本著色 東京帝室博物館出陳
  • 稱名寺伽藍古圖[國寶]一枚 紙本 元亨三年二月の裏書あり 東京帝室博物館出陳
  • 愛染明王坐像[國寶]一軀 厨子入金屬製 永仁五年二月二十七日の銘あり。鐮倉國寶館出陳
  • 圓覺經[國寶]二卷 紙本墨書、正慶二年三月金澤貞觀筆 東京帝室博物館出陳
  • 文選李善注(殘缺)[國寶]十九本 紙本墨書
  • 明儒願文集[國寶]一册 紙本墨書 表紙に湛睿とあり 藤原資實及菅原爲長の作つた諷誦願文を集めたもので僅かに七篇であるが何れも皆史的價値の多いもののみである。湛睿は鐮倉末から當寺に住持した學僧であるから書寫年代も推定せられる。
  • 銅鐘[國寶]一口 文永己巳仲冬七日の舊銘竝びに正安辛丑仲和九日の改鑄銘あり金澤實時當寺を創建し、文永六年父母の菩提のために鑄造せしめた梵鐘が實時歿後正應年閒に銷盡したので、その子顯時が正安三年に再鑄したのがこの鐘であつて新舊兩銘の存するの用意が窺はれる。金澤文庫本の奧書で有名な人宋比丘圓種が新銘を作り宋僧慈洪これを書し、開山審海上人が生存中事に當つたもので、實時父子好學の狀況を徵し得られると共に本寺の由緖を知るに必要な資料である。
  • 洋書 約三百册 憲法起草當時伊藤博文の參考とせしもの

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