廉塾

廉塾[指定史蹟]

昭和初期のガイド文

神辺駅の東北1km、神辺町七日市にあります。備後の儒者菅茶山の開いた私塾で黄葉夕陽村舎と呼びましたが、後、福山藩に要請して鄉校となるに際し廉塾と改称しました。東側は笠岡街道に面し、北側は高屋川の堤防敷に接し、当時の講堂、塾舎、居宅、附属の倉庫、納屋等が残り二階建の茶山の旧居宅も塾舎等とともに指定されています。茶山が幼い頃から学を好み早く京都に遊学し、郷に帰ってこの塾を開き教授40年、子弟も非常に多く、頼山陽もまたこの塾にあって学んだことがあります。茶山は最も詩学に長じましたが、江戸時代後期の文政10年(1827年)80歳をもって没しました。

※底本:『日本案内記 中国・四国篇(初版)』昭和9年(1934年)発行

令和に見に行くなら

名称
廉塾
かな
れんじゅく
種別
見所・観光
状態
現存し見学できる
住所
広島県福山市神辺町640
参照
参考サイト(外部リンク)

日本案内記原文

神邊驛の東北一粁、神邊町七日市にある。備後の儒者菅茶山の開いた私塾で黃葉夕陽村舍と呼んだが、後、福山藩に請ひて鄉校となるに及び廉塾と改稱した。東側は笠岡街道に面し、北側は高屋川の堤防敷に接し、舊時の講堂、塾舍、居宅、附屬の倉庫、納屋等が存して二階建の茶山の舊居宅も塾舍等と共に指定されて居る。茶山幼時より學を好み早く京都に遊學し、鄕に歸りてこの塾を開き敎授四十年、子弟頗る多く、賴山陽またこの塾に在りて學んだことがある。茶山最も詩學に長じたが、文政十年歲八十を以て歿した。

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