福山城跡

福山城址
※現代の景観です。

昭和初期のガイド文

福山駅のすぐ北にあります。城は自然の丘陵を利用して築営され、三層櫓は伏見御殿と称し、その前面を過ぎ筋鉄門を潜り、御湯殿のそばを過ぎれば本丸跡で、北部に天守閣がそびえます。二の丸跡は内濠と本丸との間にあり、三の丸跡は丘陵下の平地で福山駅付近一帯におよんでいますが白亜の長塀が遺存しています。城は江戸時代前期の元和5年(1619年)水野勝成の造営となり同8年(1622年)落成しました。水野氏の居城であること約80年にして、江戸時代中期の元禄11年(1698年)勝岺が幼くして亡くなり後継が絶えたため、同13年(1700年)松平忠雅が、出羽山形から転封しましたが、宝永7年(1710年)下野宇都宮から阿部備中守正邦が代わって入城し、約160年間阿部氏の居城でした。本丸跡は現在、福山城公園となり、阿部正弘の銅像が建っています。天守閣は有料で公開しています。

天守閣[国宝] 元和5年造営の際の遺構で6層、前面に2層の付庇を、前面左方に3層の付櫓を附属したいわゆる複合天守閣で、屋根総本瓦葺です。内部構架の巨材皆楣を用い、かつ壁面に樟板を張る等、ほかの天守閣には見られないもので、最上層の四方に火灯窓を付し勾欄付廻縁が付いています。はるかに鞆の浦等の眺望があります。

伏見三層櫓[国宝] 本丸附属の隅櫓で屋根本瓦葺、伏見御殿と称し、勝成築城の時、伏見桃山城の遺構を徳川氏より賜ったものだといいます。

筋鉄御門[国宝] 二の丸附属の門で脇戸付櫓門、屋根入母屋造、本瓦葺、門扉に縦に鉄板が入っています。

御湯殿[国宝] 崖に臨み、御物見之間と御風呂之間の二者からなり、前者は桁行四間半、梁間三間半、単層で入母屋造、後者は桁行三間半、梁間二間半、単層で屋根は一端御物見之間に接し、他端は入母屋造になっていて、ともに本瓦葺です。伏見城の遺構といいます。

※底本:『日本案内記 中国・四国篇(初版)』昭和9年(1934年)発行
福山城旧状図

令和に見に行くなら

名称
福山城跡
かな
ふくやまじょうせき
種別
見所・観光
状態
現存し見学できる
住所
広島県福山市丸之内1-8-39
参照
参考サイト(外部リンク)

日本案内記原文

驛の直ぐ北にある。城は自然の丘陵を利用して築營せられ、三層櫓は伏見御殿と稱し、その前面を過ぎ筋鐵門を潛り、御湯殿の傍を過ぐれば本丸址で、北部に天守閣が聳ゆる。二の丸址は內濠と本丸との閒にあり、三の丸址は丘陵下の平地で福山驛附近一帶に及んで居るが白堊の長塀が遺存して居る。城は元和五年水野勝成の經營にかゝり同八年落成した。水野氏の居城たる事約八十年にして、元祿十一年勝岺幼にして卒し嗣絕えたので、同十三年松平忠雅、出羽山形から轉封したが、寶永七年下野宇都宮から阿部備中守正邦代りて入城し、約百六十年閒阿部氏の居城であつた。本丸址は今、福山公園となり、阿部正弘の銅像が建つて居る。天守閣は有料で公開して居る。

天守閣[國寶] 元和五年經營の際の遺構で六層、前面に二層の附庇を、前面左方に三層の附櫓を付屬した所謂複合天守閣で、屋根總本瓦葺である。內部構架の巨材皆楣を用ゐ、且つ壁面に樟板を張る等、他の天守閣に見ざるもので、最上層の四方に火燈窓を附し勾欄附廻緣が附いて居る。遙に鞆の浦等の眺望がある。

伏見三層櫓[國寶] 本丸附屬の隅櫓で屋根本瓦葺、伏見御殿と稱し、勝成築城の時、伏見桃山城の遺構を德川氏より賜はつたものだと云ふ。

筋鐵御門[國寶] 二の丸附屬の門で脇戶附櫓門、屋根入母屋造、本瓦葺、門扉に縱に鐵板がはいである。

御湯殿[國寶] 崖に臨み、御物見之閒と御風呂之閒の二者より成り、前者は桁行四閒半、梁閒三閒半、單層で入母屋造、後者は桁行三閒半、梁閒二閒半、單層で屋根は一端御物見之閒に接し、他端は入母屋造になつて居り、共に本瓦葺である。伏見城の遺構と云ふ。

福山のみどころ