小倉市

小倉市

昭和初期のガイド文

門司市の西南に接して海に臨み、紫川および板櫃川にまたがっています。関ヶ原の戦い以後細川氏が入国しましたが、江戸時代前期の寛永9年(1632年)細川氏肥後移封の後を受けて播州明石から入国した小笠原氏十五万石の旧城下として明治維新におよびました。33年(1900年)市制を施き、大正14年(1925年)4月板櫃町を、昭和2年(1927年)4月足立村を合併し、東西9.3km南北7.9km、面積32.6km²です。近年会社、工場の設置されるもの多く、陸軍の造兵廠も置かれ、海岸の埋立は進捗し、将来の繁栄が期待されます。最近の生産は2,561万円を超え、その9割5分あまりは工産物が占め、工産物の主なものは条鋼鋼片線材、西洋紙、電球等です。繁華な通りは魚町、京町通です。この市にあった第十二師団司令部は久留米に移転しました。人口は9万8,000人。

※底本:『日本案内記 九州篇(六版)』昭和13年(1938年)発行

令和に見に行くなら

名称
小倉市
かな
こくらし
種別
見所・観光
状態
現存し見学できる
備考
合併により北九州市となっています。小倉北区と小倉南区にあたります。
住所
福岡県北九州市小倉北区、小倉南区
参照
参考サイト(外部リンク)

日本案内記原文

門司市の西南に接して海に臨み、紫川及板櫃川に跨つて居る。關ケ原役後細川氏入國したが、寬永九年細川氏肥後移封の後を受けて播州明石から入國した小笠原氏十五萬石の舊城下として明治維新に及んだ。三十三年市制を施き、大正十四年四月板櫃町を、昭和二年四月足立村を合倂し、東西九粁三南北七粁九、面積三二方粁六である。近年會社、工場の設置せられるもの多く、陸軍の造兵廠も置かれ、海岸に於ける埋立は進捗し、將來の繁榮期して待つべきものがある。本市最近の生產二千五百六十一萬圓を超え、その九割五分餘は工產物が占め、工產物の主なものは條鋼鋼片線材、西洋紙、電球等である。繁華な通は魚町、京町通である。當市にあつた第十二師團司令部は久留米に移轉した。人口九萬八千。

小倉のみどころ