小石川植物園

植物園
※現代の景観です。

昭和初期のガイド文

市内電車指ヶ谷町停留場の西約200m、白山御殿町にあり、面積約16万m²(48,000坪)、東京帝国大学理学部に附属し、東亜産の樹木類700種以上、草本類1,000種以上を植え、温室には熱帯植物約2,000種を培養しています。

この園は江戸時代中期の享保6年(1721年)江戸幕府が設けたもので、もと薬園と呼ばれ、明治初年(1868年)までは薬草の栽培所でしたが、広い意味での植物園となったのは明治8年(1875年)以後のことです。

正門は幕府時代のものが保存されて、屋根瓦に葵の紋章がついている。正面の坂を登ればシイ、イチイガシ、シラカシなどの大木があります。左に松柏類の並木があります。坂の途中にある染井桜は薬園時代のもので、東京でのこの種の最老樹のひとつです。坂の上部の斜面にはそなれ(ハイビャクシン)の一大群叢があります。登りつめると前面に植物学教室があり、これを右に見て進めば芝生があり、その中央にはイチョウとクスノキの巨木があります。その右には観賞植物花壇、温室および日蔭棚があり、温室には椰子科、蘭科、羊歯類その他の熱帯植物が多く見られます。さらに進めばシャクヤク、ツツジが植えられている処に接してメンデルブドウがあります。これは遺伝学の祖であるメンデルが実験に使用したブドウの分苗から成長したもので、大正3年(1914年)ヨーロッパから移されたものです。温室に近い喫茶店の先にはツバキの植込があり、その左に一本の大イチョウがそびえています。これは幹囲5mにおよび、明治29年(1896年)平瀬作五郎氏がイチョウの精虫を発見し、顕花植物における精虫発見の端緒となったものです。このイチョウのある付近は貝塚の遺跡で、地下1mも掘れば貝の層があり、石斧、石鏃、土器類も出土します。

ここから落葉樹林を過ぎるとニッケイ樹林があります。ここには幹囲2m以下高さ20m以下のもの17本があり、またその西にはやや離れて幹囲1.4m以下高さ18m以下のもの8本があります。これらは江戸時代中期の享保10年(1725年)インドシナのトンキンから日本に輸入されたもので、最初は駿府の薬園に植えられ、元文3年(1738年)今の処に移されました。その後マルバニッケイ、ヤブニッケイ、ハマヒバなどを混植しましたが、このような熱帯樹林が東京の寒い冬を越えて今日まで盛んに成長しているのは珍らしいことです。ニッケイ樹林の次には常緑潤葉樹林があり、日本暖地産のものが多い。その先は松柏類樹林で、そこにある休憩所を覆うツルウメモドキはまれに見る巨木です。

正門からすぐ左折すれば喬木灌木の間を過ぎ、ツツジの集植に出ます。これは大正10年(1921年)大久保つつじ園の取り払いの際に移植したもので、日の出霧島が多い。なかには70年を過ぎた老木もあります。その先には水草とハナショウブの池があり、右に山地植物の栽培地があり、さらに進めば青木昆陽が享保12年(1727年)甘藷を栽培して関東でのその端緒となった遺跡があります。また蓮池および梅林があります。その次は園内の最奥部で林泉式の庭園を構成しています。

※底本:『日本案内記 関東篇(初版)』昭和5年(1930年)発行

令和に見に行くなら

名称
小石川植物園
かな
こいしかわしょくぶつえん
種別
見所・観光
状態
現存し見学できる
住所
東京都文京区白山3-7-1
参照
参考サイト(外部リンク)

日本案内記原文

市內電車指ケ谷町停留場の西約二〇〇米、白山御殿町にあり、面積約一、六〇〇アール(四八、○〇〇坪)、東京帝國大學理學部に附屬し、東亞產の樹木類七百餘種、草本類千餘種を植ゑ、溫室には熱帶植物約二千種を培養して居る。

この園は享保六年江戶幕府が設けたもので、もと藥園と稱し、明治初年までは藥草の栽培所であつたが、廣き意味の植物園となつたのは明治八年以後のことである。

正門は幕府時代のものが保存されて、屋根瓦に葵の紋章がついて居る。正面の坂を登ればしひ、いちゐがし、しらかしなどの大木があり。左に松柏類の並木がある。坂の途中にある染井櫻は藥園時代のもので、東京に於けるこの種の最老樹の一である。坂の上部の斜面にはそなれ(はひびやくしん)の一大群叢がある。登りつめると前面に植物學敎室がある、これを右に見て進めば芝生があり、その中央には公孫樹と樟の巨木がある。その右には觀賞植物花壇、溫室及日蔭棚があり、溫室には椰子科、蘭科、羊齒類その他の熱帶植物が多い。更に進めば芍藥、つゝじの栽ゑられて居る處に接してメンデル葡萄がある。これは遺傳學の祖であるメンデルが實驗に供した葡萄の分苗から成長したもので、大正三年ヨーロツパから移されたのである。溫室に近い喫茶店の先には椿の植込があり、その左に一本の大公孫樹が聳えて居る。これは幹圍目通り五米に及び、明治二十九年平瀨作五郞氏が公孫樹の精蟲を發見し、顯花植物に於ける精蟲發見の始をなしたものである。この公孫樹のある附近は貝塚の遺跡で、地下一米も掘れば貝の層があり、石斧、石鏃、土器類も混じて居る。

これより落葉樹林を過ぎると肉桂樹林がある。こゝには目通り幹圍二米以下高さ二〇米以下のもの十七本があり、またその西方にはやゝ離れて目通り幹圍一米四以下高さ一八米以下のもの八本がある。これらは享保十年印度支那のトンキンからわが國に輸入せられたもので、最初は駿府の藥園に植ゑられ、元文三年今の處に移された。その後まるば肉桂、やぶ肉桂、はまひばなどを混植したが、かゝる熱帶樹林の東京の寒き冬を越して今日まで盛に成長して居るのは珍らしいことである。肉桂樹林の次には常綠潤葉樹林があり、わが國暖地產のものが多い。その先は松柏類樹林で、そこにある休憩所を覆ふつるうめもどきは稀に見る巨木である。

正門より直ちに左折すれば喬木灌木の閒を過ぎ、つつじの集植に出る。これは大正十年大久保つゝじ園の取拂ひの際に移植したもので、日の出霧島が多い。中には七十年を閱した老木もある。その先には水草と花菖蒲の池があり、右に山地植物の栽培地があり、更に進めば靑木昆陽が享保十二年甘藷を栽培して關東に於けるその端緖をなした遺址がある。また蓮池及梅林がある。その次は園內の最奧部で林泉式の庭園をなして居る。

小石川・巣鴨のみどころ