胆沢城跡
膽澤城址
昭和初期のガイド文
金ヶ崎駅の東南約3km、佐倉河村字宇佐にあります。現在陸羽街道がその西南部を横ぎっています。地域は方八町と呼ばれ外側の土塁は破壊されて道路となりわずかに東北隅に残影を見るに留まります。内部は稲田となりましたが、中央部の南北100m、東西200mばかりは一段高くなり、内城の位置を知ることができます。城内の随所から当時の古瓦、陶器、土器などの残片を出土します。平安時代の延暦21年(802年)坂上田村麻呂が築いたところ、次いで多賀城にあった鎮守府が移されて以来蝦夷経略の根拠地となりました。以来二百数十年を経た天喜年間(1053~1058年)には源頼義がここにいたことが知られていますが、廃止の時期は明らかでありません。遺跡は指定の史蹟です。
※底本:『日本案内記 東北篇(初版)』昭和4年(1929年)発行
令和に見に行くなら
- 名称
- 胆沢城跡
- かな
- いさわじょうあと
- 種別
- 見所・観光
- 状態
- 現存し見学できる
- 住所
- 岩手県奥州市水沢佐倉河渋田
- 参照
- 参考サイト(外部リンク)
日本案内記原文
驛の東南約三粁、佐倉河村字宇佐にある。今陸羽街道がその西南部を橫ぎる。地域は方八町と稱し外側の土壘は破壞せられて道路となり僅に東北隅に殘影を見るに止まる。內部は稻田と化したが、中央部南北一〇〇米東西二〇〇米ばかりは一段高くなり、內城の位置が知られる。城內の隨所より當時の古瓦、陶器、土器などの殘片を出土する。延曆二十一年坂上田村麿の築くところ、尋いで多賀城にあつた鎭守府を移されて以來蝦夷經略の根據地となつた。爾來二百數十年を經た天喜年閒には源賴義がこゝに居つた事が知られるが、停廢の時は明かでない。遺址は指定の史蹟である。