久能山東照宮

久能山東照宮[別格官幣社]
※現代の景観です。

昭和初期のガイド文

静岡駅の東南約10km、江尻駅の西南約10km、久能山の中腹にあり、両駅から山麓まで自動車の便があります。山麓から海に面して迂回曲折した石段を千数百段も登って到達します。境内は老樹が繁茂して神さび、鳥たちが喜々としてさえずり、眼下に駿河湾の展望が広く開け風光明媚です。社殿は国宝に指定された江戸時代初期の権現造で、楼門、鼓楼、神楽殿、神庫、唐門、瑞垣、拝殿、本殿などを備え、楼門から段々に高く山腹の平地に建てられ、いずれも石段によって結ばれています。本殿には徳川家康を祀り、その左右に豊臣秀吉および織田信長を合祀しています。拝殿は五間二面入母屋造、銅瓦葺、三間の向拝を付け朱塗の柱を建てています。桝組には繧繝彩色を施し、蟇股は緑青色で内部には極彩色牡丹の彫刻があり、欄間には天人が描かれています。長押下は内外とも黒仕立臘色塗で柱間の蔀戸の地板は金箔押、外部長押上の羽目には雲竜が描かれ内外の装飾は華麗です。石ノ間および本殿も黒仕立臘色塗で随所に鍍金金具があり、桝組は三手先を用い、繧繝彩色を施し、蟇股、通肱木などは金泥極彩色を加えています。

久能山はもと久能寺のあったところで、室町時代の永禄年間(1558~1570年)武田信玄が久能寺を今の鉄舟寺に移してここに築城しましたが、後に家康の所有となり、江戸時代前期の元和2年(1616年)4月家康が没した際に、遺言によってここに遺骸を葬り、城を廃して社殿の造営をはじめ、同3年(1617年)に竣成したのが現存の社殿です。日光東照宮は江戸時代前期の元和3年(1617年)ここから改葬され、後に寛永12年(1635年)に建築されたものとなります。

宝物館は境内にあり、家康以下歴代将軍の遺品である甲冑太刀その他約300点の宝物が陳列されています。そのなかには家康の遺品、マドリード製の置時計があり、太刀には国宝に指定されたものが13口あります。

※底本:『日本案内記 関東篇(初版)』昭和5年(1930年)発行
久能山東照宮

令和に見に行くなら

名称
久能山東照宮
かな
くのうざんとうしょうぐう
種別
見所・観光
状態
現存し見学できる
住所
静岡県静岡市駿河区根古屋390
参照
参考サイト(外部リンク)

日本案内記原文

驛の東南約一〇粁、江尻驛の西南約一〇粁、久能山の中腹にあり、兩驛より山麓まで自動車の便がある。山麓より海に面して迂回曲折せる石段を登ること千數百階にして達する。境內は老樹繁茂して神さび、諸鳥喜々としてさへづり、眼下に駿河灣の展望廣く開け風光極めて明媚である。社殿は國寶に指定された江戶時代初期の權現造で、樓門、鼓樓、神樂殿、神庫、唐門、瑞垣、拜殿、本殿などを具備し、樓門より段々に高く山腹の平地に建てられ、何れも石段によつて達せられる。本殿には德川家康を祀り、その左右に豐臣秀吉及織田信長を合祀して居る。拜殿は五閒二面入母屋造、銅瓦葺、三閒の向拜を附け朱塗の柱を建てて居る。桝組には繧繝彩色を施し、蟇股は綠靑色にして內部には極彩色牡丹の彫刻があり、欄閒には天人が描かれて居る。長押下は內外とも黑仕立臘色塗で柱閒の蔀戶の地板は金箔押、外部長押上の羽目には雲龍が描かれ內外の裝飾頗る華麗である。石ノ閒及本殿も黑仕立臘色塗で隨所に鍍金金具を附し、桝組は三手先を用ゐ、繧繝彩色を施し、蟇股、通肱木などは金泥極彩色を加へて居る。

久能山はもと久能寺のあつた所、永祿年閒武田信玄久能寺を今の鐵舟寺に移してこゝに築城したが、後家康の有に歸し、元和二年四月家康薨ずるに及び、遺言によつてこゝに遺骸を葬り、城を廢して社殿の造營をはじめ、同三年に竣成したのが現存の社殿である。日光東照宮は元和三年こゝから改葬され、後寬永十二年に建築されたのである。

寶物館は境內にあり、家康以下歷代將軍の遺品甲冑太刀その他約三百點の寶物が陳列されて居る。そのうちには家康の遺品マドリツド製の置時計があり、太刀には國寶に指定されたものが十三口ある。

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