金剛寺(天野山)
昭和初期のガイド文
南海電車高野線長野の西南約6km、天野村山麓景勝の地にあり、自動車の便があります。俗に女人高野と呼ばれ、天野山の名で知られ、行基菩薩の開基、弘法大師留錫の地と伝わります。平安時代の永万元年(1165年)高野山の僧阿観が寺を再興し、承安元年(1171年)法皇がさらに高屋憲貞に命じて諸堂を建立させ、金剛寺と名付けられました。鎌倉時代の元弘3年(1333年)大塔宮の令旨を賜り、室町時代の延元2年(1337年)勅願所となりました。正平9年から同14年(1354~1359年)のおおよそ6年間は後村上天皇の行宮でした。またこれと同時に北朝三上皇の御座所ともなり、南北両朝の史蹟として名高いところです。安土桃山時代の慶長年間(1596~1615年)には豊臣秀頼が諸堂を修理し、徳川氏もまた保護を与え、維新を経て今日におよんでいます。現在は本堂、多宝塔、御影堂、観月亭、食堂、桜門および鐘楼等の古建築が遺存し、また仏像および什宝中には多数貴重なものが残っています。
楼門[国宝] 三間一戸、屋根入母屋造、本瓦葺朱塗の楼門です。形態は荘重、構造や手法は自由で、鎌倉初期の建築です。
本堂[国宝] 七間七面、単層、屋根入母屋造、本瓦葺の大建築です。構造形式において鎌倉時代の古調を残していますが、外観および細部には桃山時代の手法を示しています。正面の向拝は後世に付加されたもので、そのほかにも近世に修理されたところが多くあります。内部後方の須弥壇には中央に本尊大日如来、左右に降三世および不動明王の三像が安置され、いずれも木造で運慶作とされますが、鉄倉末期の作で国宝に指定されています。
多宝塔婆[国宝] 方三間重層の塔婆です。勾欄の青銅製擬宝珠に「天野山金剛寺宝塔内大臣豊臣秀頼公御再興釣命慶長十一年三月吉日御奉行森嶋長以」と刻書されています。内部には華麗な極彩色を施し、四天柱には菩薩像を、また周囲の羽目板には真言八祖の像を描いています。
観月亭[国宝] 本堂の西、御影堂の東端に大きな唐破風を突き出している建物です。後村上天皇が観月したところと伝わっています。桁行南側一間、北側二間、梁間一間、単層屋根向唐破風造檜皮葺の建築で、慶長に全部改築されたものですが、構造は優雅です。
御影堂[国宝] 観月亭の西に接続している建物です。四間四面、単督素木造、屋根宝形、檜皮葺で、舟肘木を用いた一種寝殿風の趣が残る瀟洒なもので、室町時代の建築を桃山時代に大修補したものです。
鐘楼[国宝] 本堂と食堂との中間後方にあります。三間二面、重層、袴腰屋根本瓦葺で、後世修補されたところは少なくありませんが、手法は自由で禅宗建築の風格を残す鎌倉末期の建築です。
宝物殿 本堂のそばにあり、もと食堂で後村上天皇行在所の正殿として使用されたものと伝わり、現在寺宝陳列場にあてられています。次にその主要なものを列挙します。
- 五秘密曼荼羅[国宝] 一幅 絹本著色三枚折屏風仕立、仏身を描くには鉄線描の朱線を用い、截金を応用した彩色が残存している鎌倉時代の作です。
- 金堂三尊図[国宝] 一幅 本堂安置の大日、不動、降三世明王の三尊を画像にしたもので室町時代の作です。
- 虚空蔵菩薩像[国宝] 一幅 絹本著色手法金堂三尊図と同じく室町時代の細密な作です。
- 蓮華蒔絵経箱[国宝] 一箇 梨子地に蓮華流水を蒔絵したもので、鎌倉時代の優秀な作です。
- 白銅鏡[国宝] 一面 枇杷に蝶鳥を配した模様をもつ鎌倉時代の和鏡です。
- 腹巻[国宝] 五領 楠木氏一族の使用したものと伝わり、白革威二領、蘆革威一領蘆革肩白威一領および蘆革裏一領があります。
- 宝篋印陀羅尼経[国宝] 一巻 紙本金泥書巻子本、消息和歌を書いた故紙の上に、金泥で経文を書いた藤原末期の優雅なものです。和歌の作者には丹彼局や、平親宗の名が見え、また平安時代の嘉応2年(1170年)8月の奥書あるものもあります。
- 宝篋印陀羅尼経[国宝] 一巻 紙本墨書、道喜の後書きがあります。
- 大般涅槃経巻第七[国宝] 一巻 紙本墨書、後村上天皇宸翰にして、室町時代の正平14年(1359年)6月10日の奥書があります。
- 梵漢普賢行願讃[国宝] 紙本墨書 一巻
- 法華経巻第八[国宝] 一巻 紙本金泥、藤原基衡願経、平安時代の久安4年(1148年)6月17日の奥書があります。
- 延喜式神名帳断簡[国宝] 紙本墨書 一巻
令和に見に行くなら
- 名称
- 金剛寺(天野山)
- かな
- こんごうじ(あまのさん)
- 種別
- 見所・観光
- 状態
- 現存し見学できる
- 住所
- 大阪府河内長野市天野町996
- 参照
- 参考サイト(外部リンク)
日本案内記原文
同長野の西南約六粁天野村山麓景勝の地にあり、自動車の便がある。俗に女人高野と稱し、天野山の名によつて知られ、行基菩薩の開基、弘法大師留錫の地と傳へて居る。永萬元年高野山の僧阿觀、寺を再興し、承安元年法皇更に高屋憲貞に敕して諸堂を建立せしめ給ひ、金剛寺と名づけられた。元弘三年大塔宮の令旨を賜はり、延元二年敕願所となつた。正平九年より同十四年に至る凡そ六年閒は後村上天皇の行宮であつた。またこれと同時に北朝三上皇の御座所ともなり、南北兩朝の史蹟として名高い。慶長年閒には豐臣秀賴諸堂を修理し、德川氏もまた保護を與へ、維新を經て今日に及んで居る。現に本堂、多寶塔、御影堂、觀月亭、食堂、櫻門及鐘樓等の古建築遺存し、また佛像及什寶中には多數貴重なものが殘つて居る。
樓門[國寶] 三閒一戶、屋根入母屋造、本瓦葺朱塗の樓門である。形態莊重、構造手法とに頗る自由にして、鐮倉初期の建築である。
本堂[國寶] 七閒七面、單層、屋根入母屋造、本瓦葺の大建築である。構造形式に於て鐮倉時代の古調を存して居るが、外觀及細部には桃山時代の手法を示して居る。正面の向拜は後世附加されたものであり、その他にも近世の修理が多い。內部後方の須彌壇には中央に本尊大日如來、左右に降三世及不動明王の三像が安置され、何れも木造で運慶作と稱するが、鐵倉末期の作にして國寶に指定されて居る。
多寶塔婆[國寶] 方三閒重層の塔婆である。勾欄の靑銅製擬寶珠に「天野山金剛寺寶塔內大臣豐臣秀賴公御再興釣命慶長十一年三月吉日御奉行森嶋長以」と刻書されて居る。內部には華麗なる極彩色を施し、四天柱には菩薩像を、また周圍の羽目板には眞言八祖の像を描いて居る。
觀月亭[國寶] 本堂の西、御影堂の東端に大なる唐破風を突き出して居る建物である。後村上天皇觀月の所と傳へて居る。桁行南側一閒、北側二閒、梁閒一閒、單層屋根向唐破風造檜皮葺の建築にして、慶長に全部改築されたものであるが、構造頗る優雅である。
御影堂[國寶] 觀月亭の西に接續せる建物である。四閒四面、單督素木造、屋根寶形、檜皮葺にして、舟肘木を用ゐた一種寢殿風の趣を存する瀟洒なもので、室町時代の建築を桃山時代に大修補したものである。
鐘樓[國寶] 本堂と食堂との中閒後方にある。三閒二面、重層、袴腰屋根本瓦葺で、後世修補の箇所は少くないが、手法頗る自由にして禪宗建築の風格を存する鐮倉末期の建築である。
寶物殿 本堂の傍にあり、もと食堂で後村上天皇行在所の正殿として使用されたものと傳へ、今寺寶陳列場に當てられて居る。次にその主要なるものを列擧する。
- 五祕密曼荼羅[國寶] 一幅 絹本著色三枚折屏風仕立、佛身を描くには鐵線描の朱線を用ゐ、截金を應用した彩色の殘存せる鐮倉時代の作である。
- 金堂三尊圖[國寶] 一幅 本堂安置の大日、不動、降三世明王の三尊を畫像にしたもので室町時代の作である。
- 虛空藏菩薩像[國寶] 一幅 絹本著色手法金堂三尊圖と同じく室町時代の細密な作である
- 蓮華蒔繪經箱[國寶] 一箇 梨子地に蓮華流水を蒔繪したもので、鐮倉時代の優秀な作である。
- 白銅鏡[國寶] 一面 枇杷に蝶鳥を配した模樣を有する鐮倉時代の和鏡である。
- 腹卷[國寶] 五領 楠木氏一族の使用せしものと傳へ、白革威二領、蘆革威一領蘆革肩白威一領及蘆革裏一領ある。
- 寶篋印陀羅尼經[國寶] 一卷 紙本金泥書卷子本、消息和歌を書いた故紙の上へ、金泥で經文を書いた藤原末期の優雅なるものである。和歌の作者には丹彼局や、平親宗の名が見え、また嘉應二年八月の奧書あるものもある。
- 寶篋印陀羅尼經[國寶] 一卷 紙本墨書、道喜の跋がある。
- 大般涅槃經卷第七[國寶] 一卷 紙本墨書、後村上天皇宸翰にして、正平十四年六月十日の奧書がある。
- 梵漢普賢行願讃[國寶] 紙本墨書 一卷
- 法華經卷第八[國寶] 一卷 紙本金泥、藤原基衡願經、久安四年潤六月十七日の奧書がある。
- 延喜式神名帳斷簡[國寶] 紙本墨書 一卷
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