有田焼
昭和初期のガイド文
慶長2年(江戸時代初期、1597年)、佐賀藩主鍋島直茂が朝鮮から凱旋した際、多くの陶工が随行し、その一部が帰化しました。その中には「李参平」という人物が含まれており、彼が泉山で磁鉱を発見し、製陶を始めたのが有田焼の起源とされています。正保年間(江戸時代前期、1644年~1648年)には、東島徳右衛門が中国人から彩画着色の技術を学び、それを酒井田柿右衛門に伝授しました。柿右衛門は呉洲権兵衛とともに研究を重ね、その技術を確立しました。この成果は藩主の保護を受け、有田焼の製造が大いに発展する契機となりました。有田焼の製品は多くが伊万里を経由して各地に輸出されたため、一般には「伊万里焼」として知られるようになりました。また、九谷焼、瀬戸焼、京焼などの製法には、有田焼の影響が見られると言われています。
有田焼の原料となる石は、有田町の泉山で産出される長石質の石英粗面岩が使われています。この石を採掘した後、杵や機械を用いて微細に粉砕し、水簸(すいひ)によって粗い部分や鉄分を除去します。さらに不要な水分を取り除き、これを「坏土」として成形に使用します。成形は、古くから使われている蹴ろくろを主とし、置物や異形の製品については石膏型や泥漿を流し込む方法で製作します。
成形が完了すると、約950℃で素焼きを行い、その後に着色を施して釉薬をかけます。その後、約1,300℃の高温で本焼きを行い、染付が完成します。さらに赤や金などの錦絵(上絵付け)を加え、豪華絢爛な染錦とすることが多いです。完成した製品は純白で光沢があり、品質が堅牢な磁器として、実用性と美術性の両面で高く評価されています。
有田町、有田村、大川村を含む西松浦郡の陶磁器同業組合による昭和8年度(1933年)の製造額は約430万円に達し、そのうち6割以上が飲食器を中心とした国内向け製品でした。一方、輸出向けの多くは工業用品となっています。この製造額のうち、有田町は約123万円を占めています。
令和に見に行くなら
- 名称
- 有田焼
- かな
- ありたやき
- 種別
- 見所・観光
- 状態
- 現存し見学できる
- 住所
- 佐賀県西松浦郡有田町
- 参照
- 参考サイト(外部リンク)
日本案内記原文
慶長二年佐賀藩主鍋島直茂朝鮮より凱旋の際、數多の陶工隨ひ來りて歸化した。その中に李參平と云ふものがあつて、泉山の磁鑛を發見して製陶に從事した。正保年間東島德右衞門支那人より彩畫着色の法を習ひ、これを酒井田柿右衞門に傳へ、柿右衞門は吳洲權兵衞と共に幾多の研究を積んで遂に成功し、藩主の保護により、有田燒の製造は頗る盛大になつた。製品の多くは伊萬里を經て諸方に搬出されたから、世に伊萬里燒と稱された。九谷燒、瀨戶燒、京燒等の製法は有出燒に負ふ所があると云ふ。
有田燒の原料となる石は有田町泉山から產出し、石英粗面岩の風化した長石質のものである。この石を採掘し、杵または機械で微細に粉碎し、水簸によつて粗い部分や鐵分等を除去し、不用の水分を去り、坏土となし、これを以て成形にかゝる。成形は古來用ゐられた蹴轆轤によるを主とし、置物その他種々な異形物は石膏型に押込み、または泥漿を流込んで作る。成形が終れば低火度(攝氏九五〇度位)で素燒し、それに施畫着色をなし、釉を施して高熱(攝氏一、三〇〇度位)で本燒を行ひ、染附が出來る。而して更に赤や金等の錦繪卽ち上繪を施して絢爛な染錦とすることが多い。製品は素地純白にして光澤ある品質堅牢な磁器で、實用的にも美術的にも他の追從を許さぬと云ふ。
有田町、有田村、大川村外二村に亙る西松浦郡陶磁器同業組合昭和八年度製造價額は約四百三十萬圓で、六割餘は飮食器を主とする內國向に屬し、輸出向の大部は工業用品である。前記の產額中百二十三萬圓は有田町が占める。