法隆寺
昭和初期のガイド文
[法相宗大本山] 法隆寺駅の北約2キロメートルに位置し、バスでもアクセス可能です。この寺院は、用明天皇が病気平癒を祈願するために建立を誓われたものの、完成を果たさないまま崩御されたことから、推古天皇と聖徳太子がその遺志を継ぎ創建されました。この地はかつて「斑鳩の里」と呼ばれ、聖徳太子がここに宮殿を築き、斑鳩宮と名付けられた場所でもあります。そのため、法隆寺は「斑鳩寺」や「鶴寺」とも書かれることがありますが、正式には「法隆学問寺」とされています。聖徳太子が創建した寺院には、法隆寺のほか、大阪の四天王寺、法隆寺東側の中宮寺、大和の橘寺、山城の蜂岡寺、大和の池後寺、大和の葛城寺などがあります。しかし、当時の姿を現在まで良好に保存しているのは、この法隆寺だけです。なお、天智天皇9年(飛鳥時代、670年)の火災で焼失し、和銅元年(奈良時代、708年)に再建されたという説もありますが、それであっても天平様式とは明確に異なる飛鳥様式がそのまま残され、創建当時の仏像とともに1,300年以上を経た今日、世界最古の木造建築として現存していることは、まさに驚くべき奇跡と言えます。
斑鳩宮は、聖徳太子が崩御された後、蘇我氏によって上宮家の御子孫が滅ぼされるとともに完全に荒廃してしまいました。その後、天平11年(奈良時代、739年)に行信大僧都が奏聞を行い、斑鳩宮の旧跡に東院が創建され、八角円堂、すなわち夢殿が建立されました。これにより寺の発展が進みました。しかし、その後は繁栄と衰退を繰り返し、年月を経るうちに東院の諸堂も荒廃してしまいました。貞観元年(平安時代、859年)には道詮律師が勧進を行い、大規模な修理が実施されました。後三条天皇の治世初期には再び寺の活動が活発化し、寺の運営も回復しましたが、源平の乱を経て再び衰退し、東西両院の堂宇も破壊されました。その後、鎌倉時代に大規模な修繕が行われ、大いに復興しました。慶長9年(江戸時代、1604年)には豊臣秀頼の発願により、片桐且元が奉行として大修理が行われ、元禄9年(江戸時代、1696年)には将軍綱吉の生母、桂昌院が願主となり、さらに大規模な修繕が施されました。これが現在に至る法隆寺の姿となっています。大正13年(1924年)には、故元帥久邇宮邦彦親王を総裁として財団法人聖徳太子奉讃会が設立され、聖徳太子の偉業を称え、その精神を広める活動が行われました。また、政府は国庫から約29万円を支出し、完全な水道を敷設して境内建物の防火施設を整えました。法隆寺の伽藍配置は「百済様式」と呼ばれ、その特徴は中門を入ると左右に金堂と五重塔が対峙し、それらを囲む形で回廊が巡らされています。奥の正面には講堂が配置され、回廊の外には鐘楼と経楼が向かい合い、さらに三方を僧房が囲む構造となっています。しかし、現在の講堂は中世にその位置が後退したため、当初の配置とは異なっています。天平年間(奈良時代、710年~794年)に存在した西院伽藍の主要建物は、天平19年(奈良時代、747年)の『法隆寺流記資財帳』によると、四方各100丈(約300メートル)の敷地に、仏門2口、僧門3口、塔1基、金堂1口、食堂1口、廡廊1周、鐘楼、経楼、僧房4口、温室1口、大衆院屋11口、その他倉庫などが記載されています。しかし、この記録に講堂の記載がないのは、最初の講堂が焼失した後、この時点ではまだ再建されていなかったためと考えられます。
現在の法隆寺伽藍は、西院と東院に分かれています。西院は金堂、五重塔、中門などを中心とした区域で、東院は夢殿を中心とした西院の東隣にある諸堂の区域です。これらの建物の建築様式は推古時代から近世に至るまで幅広い時代にわたります。また、仏像や什宝類は推古時代以降の各時代の仏教文化を知る上で非常に貴重な遺品となっています。
西院には国宝建造物として、南大門、新堂、中門、回廊、金堂、五重塔、鐘楼、経楼、講堂、上御堂、綱封蔵、三経院および西室、西円堂、聖霊院および東室、食堂、細殿、東大門があります。
南大門[国宝] 法隆寺外郭の総門で、当寺の創建と同時期に建てられたと考えられています。現存するものは永享11年(室町時代、1439年)に再建されたもので、単層入母屋造りの三間一戸の八脚門です。その形状は整っており、室町時代の代表的な建築として高く評価されています。
新堂[国宝] 南大門を入って寺務所の北側、西園院に位置します。単層入母屋造りの三間三面の小規模な持仏堂で、鎌倉時代の建築です。棟札には「新堂院棟上弘安七季(鎌倉時代、1284年)甲申七月二日勧進上人円覚大工橘国継」と記されています。堂内には、優れた技法で造られた須弥壇があり、その上に本尊薬師如来像と両脇侍像の三体、さらに四天王像四体が安置されています。いずれも藤原時代の作で、国宝に指定されています。
護摩堂 西園院の前にあり、堂自体は江戸時代の建築です。しかし、本尊の木造不動明王立像と二童子立像(三体)は国宝に指定されています。二童子の台座には「康暦二年(南北朝時代、1380年)舜慶作清支彩色」の銘があり、木造弘法大師坐像も国宝です。この像の胎内には「応安八年(南北朝時代、1375年)三月慶秀等造立」の銘が記されています。
中門[国宝] 主要伽藍の正面に建つ四間三面二戸の楼門です。左右の間には仁王像が安置されており、中央の二間は中央の柱によって二戸の入口に分けられています。この形式は非常に特異です。中門の建築様式は細部の手法まで金堂と一致し、全体として荘重で安定感があり、各部の均衡が非常に整っています。この楼門は稀代の傑作とされています。左右の仁王像(金剛力士立像)は、頭部が塑像で、他の部分はすべて木彫です。後世の補修が多いため、当初の迫力はやや失われていますが、制作年代は和銅時代(奈良時代初期、8世紀初頭)と推定されています。
廻廊[国宝] 桁行85間、梁間1間、単層で屋根は本瓦葺き、飛鳥時代の建築様式です。中門から左右に延び、東西に折れた後、さらに北に屈折し、鐘楼や経楼を通過して講堂の両脇に至る「凸」字形を形成しています。この廻廊は金堂と五重塔を内側に囲む形で配置されています。ただし、北折して屈折する部分から先は藤原時代の改修によるもので、飛鳥時代に属する他の部分とは柱をはじめ細部の構造に顕著な違いがあります。
金堂[国宝] 二重の石壇の上に建てられており、上壇には当初のままの凝灰岩を使用していますが、下壇はいつの時代かに花崗岩に置き換えられています。このように石壇を二重にする形式は飛鳥時代の特徴です。金堂は下層が5間×4面、上層が4間×3面の二重構造を持つ大規模な建築物です。屋根は入母屋造の本瓦葺で、下層の四周に裳階が取り付けられています。この裳階は和銅年間(奈良時代、8世紀初頭)ごろに追加されたもので、さらに裳階の上部に四隅の屋根を支える龍が巻き付いた支柱や飾りなどは、いずれも江戸時代の大修理時に追加されたものです。上下二層の差が大きい構造は、建物全体にそびえ立つような印象を与えるとともに、安定感を際立たせています。また、深い軒先やその反り、雲形の装飾を施した肘木や斗など、自由で生き生きとした建築技法は、まさに職人たちの卓越した技の結晶といえるでしょう。さらに、上層の周囲にある勾欄には、飛鳥時代建築の特徴が随所に見られます。特に腰組三斗や、間割束地覆平桁間に施された卍崩しの組子細工などは、芸術的価値が高いものです。この外観の荘厳さと美しさを目の当たりにすると、法隆寺を建立した聖徳太子の非凡な感性と芸術性に驚かされるばかりです。金堂の扉は、装飾を一切施していない高さ約3メートル、幅約90センチの一枚板でできています。その扉をくぐり堂内に入ると、飛鳥様式の美が眼前に広がります。太い円柱が整然と並び、それぞれ絶妙な膨らみを持つことで堂内に落ち着いた雰囲気を生み出しています。柱の上部には三斗を配し、柱と大斗の間には皿斗を挟んでいます。枡組には雲形の肘木や斗を使用し、独自の趣を感じさせる彫り方が施されています。中央部の3間×2面を内陣、周囲の1間通りを外陣としています。天井は外陣が組入天井、内陣が折上げ天井で、それぞれの格間や支輪間には、胡粉地に蓮花文や宝相華唐草が彩画されています。床は現在、漆喰叩きで仕上げられています。内陣には漆喰で仕上げた須弥壇があり、その周囲には朱塗りの擬宝珠勾欄がめぐらされています。これらはともに江戸時代に修復されたものです。壇上には多くの仏像が安置されています。また、天井下の周囲や外陣の壁面には、有名な壁画が描かれています。
金堂壁画[国宝] 金堂壁画は、日本絵画史において非常に貴重な遺産です。主要部分は金堂外陣の四方、12面の壁に描かれています。この壁画の画題については諸説あり、統一された見解はありません。西壁には阿弥陀仏、すなわち無量寿仏の浄土が描かれていることは広く認められていますが、東壁や北壁の東寄りおよび西寄りの壁に描かれた浄土については、宝生(東)、薬師(北の東)、釈迦(北の西)とする説や、金光明経の四仏(無量寿、宝生、阿閦、微妙声)とする説があります。この解釈には、金堂本尊の特定が必要であるため、現在のところ断定が難しい状況です。他の8面の小壁には、八菩薩が描かれています。製作手法としては、藁、土、小砂利を混ぜた下地の上に何層も土を塗り重ね、最終的に白土を塗り、膠で溶いた顔料を用いて描かれたとされています。この壁画は、仏像の規範が確立される以前に描かれたため、仏尊の形態や配置が非常に自由であり、装飾的な効果を十分に発揮しています。また、仏菩薩の顔立ちや服装にも独特な特徴があり、西域芸術との共通点を感じさせます。構図の雄大さ、仏菩薩の表情や容姿における写実性と理想性の見事な調和、宗教的精神の深遠さと芸術的表現の美しさを併せ持つこの作品は、ほかに類を見ないほど優れたものです。特に、西方の阿弥陀浄土が描かれた大壁面は際立った存在感を持ち、保存状態も比較的良好です。この壁画を前にすると、荘厳な如来の姿や、両脇侍の温和な表情に触れることができ、その感動は計り知れません。筆者については、古くから止利や曇徴とする説がありますが、製作年代が裳層が付加された和銅年間(奈良時代、708年~715年)とされることから、いずれも不明であると考えられています。
薬師如来坐像[国宝] この像は金銅製で、須弥壇の正面に向かって右側に安置されています。像の高さは約82センチメートル、光背の高さは約80センチメートルです。その光背の裏面には以下の刻書銘があります。
「池辺大宮治天下天皇大御身労賜時歳
次丙午年 召於大王天皇与太子而誓願賜我大
御病太平欲坐 故将造寺薬師像作仕奉詔然
当時崩賜造不堪者小治田大宮治天下大王天
皇及東宮聖王大命受賜而歳次丁卯年仕奉」
これは、用明天皇が即位元年(飛鳥時代、585年)にご病気になられた際、天皇が推古天皇と聖徳太子を召してご平癒を祈願するために仏寺を建て、薬師像を造ることを議されたことを記したものです。しかし翌年の4月に用明天皇は崩御されたため、推古天皇と聖徳太子がその遺詔を奉じて、推古天皇即位15年(飛鳥時代、607年)にこの像を造立されたことが記録されています。この像の由来は法隆寺の創建と深く関わりがあり、造像銘として現存する最古のものです。また、像と光背の双方が北魏様式を基にしていますが、これほどまでに形態が整ったものや、銅造でこれほど大きな仏像は中国にも例がなく、東洋の仏像の中でも特に貴重なもののひとつとされています。
脇侍立像[国宝] 薬師如来坐像の両脇に安置されている金銅製の脇侍像は、日光菩薩と月光菩薩と呼ばれています。これらはもともと本尊が単独像であったところに後から添えられたもので、形式も本尊よりやや後の時代のものと考えられています。
釈迦如来坐像および同脇侍立像[国宝] この像は金銅製で、須弥壇の正面中央に安置されています。中尊(釈迦如来)は高さ約86センチメートル、光背の高さは約163センチメートル、右脇侍の高さは約94センチメートル、左脇侍の高さは約91センチメートルです。これらの像の由来は、中尊の光背裏に刻まれた以下の銘文から明らかにされています。
「法興元卅一年歳次辛己十二月鬼
前太后崩明年正月廿二日上宮法
皇枕病弗愈于食王后仍以労疾並
着於床時王后王子等及與諸臣深
懷愁毒共相発願仰依三宝当造釈
像尺寸王身蒙此願力轉病延壽安
住世間若是定業以背世者往登淨
土早昇妙果二月廿一日癸酉王后
即世翌日法皇登退癸未年三月中
如願敬造釋迦尊像並俠侍及荘厳
具竟乗斯微福信道智識現在安隠
出生入死隨奉三主紹隆三宝遂共
彼岸普遍六道法界含識得脱苦縁
同趣菩提使司馬鞍首止利仏師造」
推古天皇29年(飛鳥時代、621年)12月に聖徳太子の母后が崩御され、翌年(622年)の1月22日に聖徳太子が病床に伏されました。その後、膳王后も重い病により起き上がることができなくなりました。王后である橘大郎女王、王子たち、そして諸臣たちは深く悲しみ、三宝に帰依して聖徳太子の身長と同じ寸法の釈迦像を造ることを願われました。しかし、王后と太子が相次いで崩御されたため、この願いを果たすため推古天皇31年(623年)に鞍作止利に命じてこの像を造らせたと伝えられています。
この釈迦三尊像は、前述の薬師如来像と形式的にも手法的にも非常に似ており、同じ作者によるものと推測されています。ただし、鞍作止利が確実に手掛けたとされる作品の中で、現存するものとしてはこの像が最も代表的なものとされています。この三尊像は北魏様式の中でも最も優れた作品のひとつであり、薬師如来像をさらに超えた整美さと安定感を備えています。その優美な曲線は自在で、いわゆる「止利式仏像」の偉大な典型とされています。
阿弥陀三尊像[国宝] この像は金銅製で、須弥壇の左側に安置されています。中尊(阿弥陀如来)は高さ約64センチメートル、両脇侍(観音菩薩と勢至菩薩)はそれぞれ約55センチメートルの高さがあります。全体的な形状は、前述の仏像群に似ていますが、光背を除いた部分は推古時代(飛鳥時代、592年~628年)の作風とは大きく異なり、鎌倉時代(1185年~1333年)特有の写実的な様式が取り入れられています。その理由は、中尊の光背裏に記された銘文によって明らかにされています。最初の阿弥陀像は承徳2年(飛鳥時代、1098年)に盗難に遭い、その後100年以上を経た寛喜3年(鎌倉時代、1231年)に再び造像されたことが記されています。この像は運慶の子である康勝が制作した唯一の銘入り作品であり、芸術史上非常に貴重なものです。特に向かって右側の脇侍像は、優美な姿態と精妙な彫刻技術が特徴で、奈良時代初期(710年~794年)の優れた作品とされています。
以下は、光背裏に記された銘文の一部です:
奉鑄顯
観世音菩薩
阿弥陀如来
大勢至菩薩
右去承徳年中白波入金堂侵仏像盗道具
自爾以降一百余歳寺僧等毎見須弥座之空残屢悲端厳像之永隠非啻一寺之含悲争无四隣之傷意依新勧進十方施主磨瑩三尊聖容
于時寛喜三辛卯三月八日所催僧正範円寺務之時如鑄之
貞永元年壬辰八月五日法印権大僧都覚遍寺務之時仕奉之仰願
本師阿弥陀伏乞本願聖霊納受面面懇志不空
各結縁然則断興修善之道漸以満足矣
貞永元年八月 日
大勧進僧観俊
大仏師法橋康勝
銅工平国文
天蓋[国宝] 阿弥陀三尊像の上部には天蓋が吊り下げられています。これには二つの異なる時代の作品が含まれています。中央の釈迦像の上と西側の阿弥陀像の上にある天蓋は推古時代の作品であり、東側の薬師像の上にあるものは鎌倉時代の天福年間(1233年~1234年)に模造されたものです。
古式の天蓋は、屋根に二段の庇を出し、軒には透かし彫りの飛天像や金銅製の装飾を施しています。また、下部には宝相華文や蓮唐草の彫刻が施されており、極めて華麗で壮大なデザインとなっています。
一方、新作の天蓋は古式の形式を踏襲しているものの、鎌倉時代独特の新しい様式を取り入れています。ただし、古式と比べると完成度には差が見られます。
四天王立像[国宝] 木造で、須弥壇の四隅に安置されています。高さはそれぞれ約1.3メートルあり、日本最古の四天王像とされています。その直立し正面を見据えた姿勢や衣文の彫刻手法には、推古時代(飛鳥時代、西暦593~628年)の特徴がよく表れています。製作は簡素ながら独特で、後世の四天王像とは趣が大きく異なります。広目天と多聞天の光背にはそれぞれ刻銘があり、広目天には「山口大口費上而次木閈二人作也」、多聞天には「薬師徳保上而鉄師司古二人作」と記されています。「山口大口費」は『日本書紀』白雉元年(飛鳥時代、西暦650年)の条に「この年、漢山口直大口が勅命を受けて千仏像を刻む」と記されており、この人物と同一と考えられています。
毘沙門天・吉祥天両立像[国宝] 木造で、毘沙門天は高さ約1.2メートル、吉祥天は約1.16メートルあります。この両像は、現在では金堂内で釈迦仏の左右に安置されていますが、もともとは最勝会の本尊として制作され、白河天皇の治世である承暦2年(平安時代、西暦1078年)に安置されたものです。他に類を見ない独特な像です。両像には濃い彩色が施されており、彫刻の細部や刀法の技は見えにくいものの、円満な姿態や優美な顔立ち、華やかな装飾が相まって、優雅な趣を持っています。特に、藤原時代に盛んに使われた截金(きりかね)七宝文様が毘沙門天の肩に施され、立涌形の菱形文様が吉祥天の紐帯に見られます。
普賢延命坐像[国宝] 木造で、高さ約91センチメートル。平安時代初期の仏像としては、野山金堂の同像が焼失した今日、唯一現存する遺品です。現存する中では最古の彫像とされています。この像は一木造りで、厳密な手法で制作されており、粗剛さの中に独特の力強さが感じられます。増益延寿の修法本尊として、その加持力が姿勢に表れています。宝珠形の二重光背も同時代の制作で、一部に鮮やかな彩色が残っています。
観世音菩薩立像[国宝] 木造で、高さ約1.65メートル。直立した姿勢は安定感があり、全体の均衡が非常に整っています。藤原時代初期(平安時代、西暦10世紀頃)の作で、当時の優雅で柔らかい作風が取り入れられる前の力強さを持った作品です。
聖観音立像[国宝] 木造で、高さ約1.83メートル。藤原時代初期の作ですが、宝冠は唐の様式を保ち、髪筋が一本一本丁寧に彫刻されています。その姿は特に美しく、全身に彩色と截金が施され、大花丸文が散りばめられています。台座と二重光背も国宝に指定されています。
橘夫人厨子および阿弥陀三尊像[国宝] 須弥壇北側にある厨子の内部には、本尊である阿弥陀三尊像が安置されています。この三尊像は光明皇后の母である橘三千代夫人が念持仏としていたとされ、厨子の名前もそれに由来しています。厨子の高さは約2.8メートルで、台座、龕、天蓋の三部から構成されています。
阿弥陀三尊像[国宝] 金銅製の本尊であり、中尊の高さは約33センチメートル、両脇侍の高さはそれぞれ約27センチメートルです。この三尊仏は、方形の金銅板から突き出た三茎の蓮華台の上に安置されています。金銅板の表面には、波紋の間に蓮の葉が浮かぶ蓮池が浅い彫りで描かれています。三尊の背後には、3枚の金銅板からなる屏障が設けられています。この屏障は波状の形をしており、表面には菩薩形の像5体と化仏7体が浮き彫りで表現されています。菩薩像はそれぞれ異なる姿勢で、池から突き出た蓮華に座り、本尊を仰ぐように配置されています。舞い上がる天衣や高く伸びた蓮の茎が装飾的に屏障全体を彩っています。中尊の光背は屏障に取り付けられており、極めて精緻に作られています。中央には単弁の蓮華文が描かれ、その周囲には網目状の透かし彫り、さらに外周には唐草模様と水文様が絡み合うデザインが施されています。この繊細な意匠や卓越した技法は、優美で気品あふれる美しさを表現しています。本尊は丸みを帯びた姿態と慈悲深い表情が特徴的で、衣文の彫りも滑らかで流麗です。両脇侍も宝冠や瓔珞、裙衣まで精巧に作られ、初唐の影響が色濃い奈良時代初期の作品であることがわかります。厨子の扉には菩薩や四天王、金剛力士などが密陀僧(みつだそう)で描かれています。これらの表情は豊かで姿勢も自由かつ優美であり、体格や四肢のバランスも見事です。衣文の線も流麗で温かみがあり、前時代の仏像とは異なる新しい表現が取り入れられています。台座の四面には胡粉を塗った地に菩薩や声聞などが描かれており、それらは初唐様式に属しています。これらの装飾は金堂の壁画の流れを汲みながらも、より洗練され成熟した表現となっています。
観世音菩薩立像 [国宝] 金堂須弥壇の後部にある玉虫厨子のそばに安置されています。この像は木造で彩色が施されており、高さは約2.09メートルです。この像は百済から献上されたと伝えられており、「百済観音」として広く知られています。夢殿の聖観音像と並び、推古時代の木造仏像の中でも特に傑出した遺作の一つとされています。この観音像は特に細長く、全体的に扁平な造形が特徴です。両腕にかかる天衣は夢殿の観音像のように大きく広がる形状ではなく、肩から垂れる髪も硬直的な形状ではなく、やや波状を帯びた写実的な表現となっています。また、裳のひだを表現する縦の線が規則正しく並んで流れているため、細長い姿勢の美しさがさらに際立っています。この直立した姿勢と、体の曲線や柔らかく曲げた手の表現が相まって、崇高で優美な雰囲気を醸し出しています。光背の支柱が竹幹を模している点も珍しく、この形式は中宮寺の本尊にも見られる特徴です。また、台座が五角形という点も非常に珍しい造形となっています。
玉虫厨子 [国宝] 須弥壇の東側に安置されています。この厨子は高さ約2.33メートルで、宝殿部分が腰の細い高い台座の上に乗せられています。これは推古時代の建築や絵画を考察する上で極めて重要な資料です。柱や装飾部分には、推古時代特有の忍冬文(つる草模様)を主調とした透彫りの金具が用いられています。その透彫りの金具の下には玉虫の羽が敷かれており、これが「玉虫厨子」という名称の由来です。宝殿の屋根は、四隅を切り落とした上に切妻屋根を載せた独特な入母屋造となっており、錣葺きという形式です。棟の両端にある鴟尾は古式を反映していますが、現在見られるものは模造品です。金堂の大屋根は後世に改造されているため、原型を知るにはこの宝殿の屋根を参考にするとよいでしょう。なお、皿斗や大斗、雲斗、雲肘木などの構造は金堂と同一の形式となっています。厨子と台座の四面には、密陀僧という技法で描かれた絵が施されています。宝殿の扉には正面に二天像、側面には菩薩像が描かれています。後壁には山上に三基の宝塔、日月、洞窟の中にいる羅漢、飛天、鳳凰などが描かれています。台座の四面には舎利供養図、餓虎投身図、施身聞偈図が描かれており、図案は非常に古風ですが、物語の時間的な流れが巧みに画面に配置され、生き生きとした表現が特徴です。この作品は装飾的な効果も高く、「天寿国曼荼羅」と並び、日本最古の仏画の双璧とされています。なお、中に安置されている本尊は、これらの厨子や台座の制作年代よりも後の時代に作られたものとされています。
伏蔵 金堂の外陣北東隅に、漆喰で固められた饅頭形の構造物があります。これは「鎮壇」と呼ばれるものですが、一般的には「伏蔵」として知られています。ここには貴重な宝物が埋められていると言われています。
五重塔[国宝] 金堂と東西に並び立つ、二重の石壇の上に建つ三間五層の塔です。その建築様式は金堂と全く同一です。高さのわりに初層の面積が大きく、各層の軒が深く張り出し、その出方に変化を持たせています。また、屋根の勾配は緩やかで、塔の高さの3分の1に相当する九輪が全体のバランスを引き締めています。このため、塔全体が安定感と荘重さを兼ね備えた外観を呈しています。さらに、大胆な軒の設計、雄大な組物、高雅な高欄、そして秀麗な相輪が上下の調和を強調し、極めて美しい均衡と調和を生み出しています。この塔は、日本国内で最古にして最高の五重塔とされています。高さは約31.8メートルで、初層の裳階は和銅年間(奈良時代初期、708年頃)に追加されたものです。外部の装飾は丹塗りのみの簡素なものですが、内部には、内外の空間を分ける四天柱が配置され、外陣には組み入れ天井が施されています。格間には、胡粉地に極彩色で描かれた蓮華文が装飾され、見応えがあります。
塑造群像[国宝] 内陣の須弥壇には、土を使って須弥山を造り、その四面に以下の場面が表現されています。東側には「維摩詰問答」、北側には「涅槃像」、西側には「舎利供養」、南側には「弥勒仏」の四つの光景が、それぞれ塑造の群像によって表されています。これは日本に現存する唯一の事例であり、大変貴重なものです。一部の壊れた像は後世に模造された拙劣なものに置き換えられていますが、東面の文殊菩薩や維摩詰、および侍者の坐像15体、北面の涅槃釈迦仏および侍者像19体、西面の金棺1基、舎利塔1基、侍者坐像15体、南面の弥勒菩薩坐像1体などは、どれも優れた技術と高い気品を備えています。これらはすべて国宝に指定されていますが、もしこれらがすべて原形のまま残されていたなら、いかに驚嘆すべきものであったかが想像に難くありません。その製作年代は和銅4年(奈良時代、711年)とされています。
大講堂[国宝] 最初の講堂は延長3年(平安時代、925年)に、西室、北室、三経院などとともに雷火により焼失しました。その後、正暦元年(990年)に、京都から移築され、元の位置から後方に移された北室跡に再建されました。この建物は、九間四面の単層構造で、屋根は入母屋造、本瓦葺きの形式を取っています。藤原時代初期における非常に雄大な建築として知られています。
薬師三尊像[国宝] 木造漆箔で、講堂内の須弥壇上に安置されています。中央の薬師如来像は高さ約2.6メートル、両脇の脇侍像はそれぞれ約1.6メートルの高さがあります。一木造の名残をとどめており、彫刻の技法が力強く、姿態は雄大でありながら慈悲の表情に勇壮さを含む、藤原時代初期の大作です。
四天王像(木造)[国宝] 講堂内の須弥壇四隅に安置されています。高さは約1.9メートルから2メートルで、薬師三尊像と同時代に制作されたものです。
経楼[国宝] 廻廊の北端付近、大講堂に向かって左側にあります。間口3間、奥行き2間の重層建築で、屋根は切妻本瓦葺となっています。奈良時代に再建されたもので、優美で力強い肘木の曲線や軽快な頭貫の意匠から、当時の建築様式がよくうかがえます。
観勒僧正坐像[国宝] 経楼内に安置されています。平安時代の優れた彫刻作品で、厨子の中に収められています。観勒僧正は、推古天皇15年(飛鳥時代、607年)に百済から来朝した名僧として知られています。
鐘楼[国宝] 廻廊の北端付近、経楼の向かい側で大講堂に向かって右手にあります。間口3間、奥行き2間の重層建築で、その構造形式は経楼とほぼ同じですが、藤原時代に建てられたため、肘木の曲線が弱くなっています。
銅鐘[国宝] 鐘楼にかけられている鐘で、銘文はありません。しかし、上下帯の忍冬唐草文や撞座の蓮華文から、奈良時代前期に鋳造されたものとされ、現存する最古の名鐘として名高いものです。
綱封蔵 宝物庫で、開閉する際に寺の三綱職(住職、副住職、維那)の封印を必要としたことから、この名が付けられました。現在の建物は室町時代に建てられたものです。内部は3つの部屋に分かれており、推古天皇の時代以降の貴重な品々や歴代の寄進品が収められています。中央の部屋から右手に入った南室には、特に重要な宝物が展示されています。以下に各室の主要な展示品を挙げます。
日光月光菩薩立像[国宝] 2体。木造で、奈良時代初期の作です。現在は鎌倉時代に作られた厨子に収められています。
観音勢至立像[国宝] 2体。金銅製で、飛鳥時代の作品です。もとは金堂の阿弥陀如来像の脇侍と伝えられています。
百万小塔・十万節塔・一万節塔[国宝] 計102基。百万塔は高さ約13.5センチメートルで、三重塔の形をしています。九輪の下に陀羅尼と呼ばれる経文の印刷物を収めた供養塔です。天平宝字8年(奈良時代、764年)の恵美押勝の乱の後、孝謙天皇の発願により十大寺に分納されました。この陀羅尼の印刷物は、世界最古の木版印刷物としても有名です。
南室
- 観世音菩薩立像[国宝] 1体 金銅製、高さ約57cm 奈良時代の作品です。
- 薬師如来坐像[国宝] 1体 金銅製、高さ約35cm 奈良時代初期の優れた作品です。
- 之面観音立像[国宝] 1体 木造、高さ約39cm 檀像彫刻を代表する貴重な作品です。頭飾や瓔珞などの荘厳具から台座まで全て一木から彫り出されており、その精巧な技法は驚くべきものです。唐朝様式を代表する彫刻として高く評価されています。
- 夢違観音立像[国宝] 1体 金銅製、高さ約88cm かつて絵殿の本尊として祀られていました。悪夢を吉夢に変えるご利益があると信仰され、「夢違観音」と呼ばれています。微笑を浮かべた表情が特徴的で、奈良時代初期の造像に見られる純唐様式から日本化への移行を示す優れた作品です。
- 観音勢至菩薩立像[国宝] 2体 木造漆箔、高さ約85cm 奈良時代初期の作品で、漆箔が良好に保存されています。
- 文殊普賢両菩薩立像[国宝] 2体 木造、高さ約85cm 奈良時代初期の作品です。
- 如意輪観音坐像[国宝] 1体 木造、高さ約17cm 藤原末期の精巧な作品で、台座には正嘉2年(鎌倉時代、1258年)の修理銘が残されています。
- 阿弥陀三尊像[国宝] 1面 塼製。この種の塼像としては唐招提寺のものと並び最も精巧で、唐代に制作された希少な作品です。
- 十一面観音立像[国宝] 1体 乾漆造、高さ約75cm 天平時代の作品です。
- 薬師坐像[国宝] 1体 金銅製、高さ約30cm 金色が良く残っており、八角の厨子に納められています。
- 弥勒菩薩坐像[国宝] 1体 木心乾漆造、高さ約60cm 奈良時代末期に制作された乾漆造像で、木彫技術全盛期への移行を示す貴重な作品です。特に光背には鳳凰や宝相華、飛雲などの模様が施されており、その秀麗な装飾が際立っています。
- 毘沙門天像[国宝] 1面 絹本著色、額装で高さ約3m 平安時代の作品です。
- 観音菩薩立像[国宝] 1体 金銅製、高さ約60cm 飛鳥時代に制作された作品で、金色が良く保存されており、八角の厨子に納められています。
- 聖徳太子立像[国宝] 1面 絹本著色 聖徳太子の孝養像として伝わる鎌倉時代の作品です。
北室
- 本室には国宝の展示はありませんが、多数の百万塔や伎楽面、舞楽面、古代の釣桝などが陳列されています。
聖霊院(豊聡殿)[国宝] 聖徳太子像が祀られるようになったのは古く、最初は勧学院で安置されていました。その後、一時は綱封蔵に納められたこともありましたが、堀河天皇の時代に東室が倒壊し、保安2年(平安時代、1121年)に再建されました。この際、建物の南端が改修されて堂殿が設けられ、太子像が安置されました。この新しい堂は「新聖皇院」と名付けられ、現在では聖霊院と呼ばれています。現在の建築は鎌倉時代に改修されたもので、五間六面の単層切妻造、本瓦葺きの建物です。正面には檜皮葺きの庇が設けられ、向拝が付いています。堂内には聖徳太子の像を中心に、脇侍である山背王、茨田王、殖栗王、慧慈法師の像が安置されています。さらに、左右には如意輪観音坐像と地蔵菩薩立像も祀られています。
聖徳太子及び脇侍坐像 五体[国宝] これらの木造像は、正面の須弥壇の厨子内に安置されており、中央に聖徳太子像が、左右には山背王、茨田王、殖栗王の三王子と慧慈法師の像が配置されています。聖徳太子像は、35歳の姿を表しているとされ、束帯姿で笏を持つ坐像です。高さは約83センチメートルで、衣装には全面に截金文様が施され、大きな丸紋が散らされています。眉は鋭く吊り上がり、上目遣いの表情には迫力があり、厳粛な威容を感じさせます。衣服のひだには柔らかな曲線が巧みに表現され、整然とした姿勢を作り上げています。胎内には木製の蓬莱山が収められ、その上に古式の金銅製観音像が安置されています。また、細字で書かれた法華経二巻、維摩経一巻、勝鬘経一巻が一つの箱に収められています。山背王像は高さ約79センチメートルで、袈裟をまとい如意を持つ姿です。殖栗王像は高さ約53センチメートルで、念珠と箱を持ち、剣を帯びています。茨田王像は高さ約56センチメートルで、太子の剣を持つ姿です。慧慈法師像は高さ約79センチメートルで、納衣と香炉を持っています。これらの像は、太子像の威厳と叡智を表現したものに対し、脇侍の像が安らかな表情を浮かべており、対比の美しさが見事です。この像群は、鳥羽天皇の天仁年間(平安時代、1108年~1110年)に制作が始まり、保安2年(平安時代、1121年)に開眼供養が行われたとされています。彫刻技法や截金装飾の技術は藤原時代後期の特徴をよく表しており、木彫による聖徳太子像として、これほどまでに精巧かつ美しい作品は他に例を見ません。
地蔵菩薩立像[国宝] 木造で高さ約75センチメートルの地蔵菩薩立像は、聖徳太子像の左側の厨子内に安置されています。もとは橘寺にあったと伝えられています。この像は左手に宝珠を掲げ、眉が大きく開き、細い目と少し突き出た唇が特徴的で、慈悲に満ちた表情をしています。貞観時代(平安時代、859年~877年)の技法が感じられ、優美で繊細な作風は、法華寺の十一面観音像と並び称されるほどの完成度を誇ります。
如意輪観音坐像[国宝] 木造で高さ約95センチメートルの如意輪観音坐像は、聖徳太子像の右側の厨子内に安置されています。この像は二臂の如意輪観音として珍しい形相を持ち、藤原時代(平安時代、894年~1185年)の優雅な作風が反映されています。台座の修理銘から、永仁3年(鎌倉時代、1295年)に修復されたことが分かります。
食堂[国宝] 食堂は聖霊院の北東に位置し、奈良時代(710年~794年)に建てられたもので、日本に現存する最古の食堂建築です。内部には塑造の薬師如来像が安置されています。
細殿[国宝] 細殿は食堂の前にある付属の建物で、鎌倉時代(1185年~1333年)に建てられたものです。
上御堂[国宝] 講堂の背後にある丘の上に建つ上御堂は、舎人親王の発願により創建されたと伝えられています。現在の建築は鎌倉時代末期(14世紀初頭)に再建されたもので、桁行七間、梁間四間の単層で、入母屋造の本瓦葺です。本尊として釈迦三尊像[国宝]が安置されており、中尊の釈迦如来像は高さ約2.25メートルで、藤原初期(平安時代後期、11世紀初頭)の傑作です。座具の裏には応安3年(南北朝時代、1370年)の銘文があります。このほか、四天王像[国宝]も安置されており、吉野朝時代(14世紀中期)の精巧な作例で、広目天像には文和4年(南北朝時代、1355年)の墨書銘が確認されています。
三経院及び西室[国宝] 三経院は『勝鬘経』『維摩経』『法華経』の三経を講読するための場所で、現存する建物は鎌倉時代に再建されたものです。一方、西室は僧侶の宿舎として使われた建物で、こちらも鎌倉時代の再建です。当時の僧房建築の特徴を知ることができる貴重な遺構です。
弥勒菩薩半跏像(木造)[国宝] 本像は三経院に安置されており、唯識の講説に用いられる本尊です。高さは約76センチメートルで、奈良時代の古風を保ちながらも平安時代初期に作られた一木造の仏像です。大宝冠を戴き、豊かな表情と開かれた明るい目、落ち着きのある姿が特徴で、彌勒菩薩像の中では最古の名品とされています。
西円堂(峰薬師)[国宝] 西室の北にある小高い丘の上に建つ八角円堂で、橘夫人の発願により養老2年(奈良時代、718年)に創建されました。現在の建築は鎌倉時代に再建されたものです。堂内には八角柱が八本立ち、虹梁によってつながれています。また、木造の二重須弥壇が内陣から外陣にかけて設けられ、その中央には奈良時代に作られた丈六薬師如来の乾漆座像[国宝]が安置されています。この本尊の周囲には、木造の十二神将立像[国宝]が配置されています。そのうち2体は藤原時代、残りは鎌倉時代の作です。さらに、平安時代の作である地蔵菩薩立像や千手観音立像[いずれも国宝]も安置されています。なお、西円堂には古来より奉納された絵馬や鏡、刀剣、鍔などが多数展示されており、柱や虹梁、羽目板、小壁などにも掛けられています。
地蔵堂[国宝] 西円堂の東側にあり、やや低い場所に位置する小規模な建物です。間口と奥行きが3間ずつの単層で、屋根は入母屋造瓦葺となっています。棟札には応安5年(室町時代、1372年)と記されており、構造様式から室町中期の特色が見て取れます。蟇股や拳鼻などの彫刻が非常に美しく、見どころの一つです。
本尊地蔵菩薩半跏像[国宝] 木造で高さは約51センチメートル。玉眼が施され、金模様と極彩色で仕上げられた鎌倉時代の優れた作品です。
東大門[国宝] 西院伽藍の東側にある門で、奈良時代に建築されました。
東大門を出ると、勧学院の表門[国宝]を通り、東院伽藍の神聖な区域へと進むことができます。東院伽藍の主要建築物には、東院南門、東院西門、回廊、夢殿、礼堂、舎利殿、絵殿、伝法堂、鐘楼などがあります。
東院西門[国宝] 切妻造の四脚門で、室町時代に建てられた建築です。
東院南門[国宝] 八脚切妻造の門で、室町時代の建築です。「不明門」とも呼ばれ、東院伽藍の表門としての役割を果たしています。この門と東院西門をつなぐ築地塀によって、東院伽藍の外廊が形作られています。
東院回廊[国宝] 夢殿の前にある礼堂の左右から始まり、夢殿を囲むように伸び、後方では舎利殿や絵殿の両側にまで達しています。室町時代を代表する歩廊として名高く、その美しさは見応えがあります。
東院礼堂[国宝] 夢殿の正面に建つ礼堂で、鎌倉時代に再建された単層切妻造の建築です。本瓦葺で、シンプルながら重厚な佇まいが特徴です。
夢殿[国宝] 天平11年(奈良時代、739年)に行信僧都によって創建された、上宮王院の本堂です。東院伽藍の中で最も重要な建築で、創建当時の姿をそのまま残しています。二重の石壇上に建ち、日本に現存する八角堂の中で最も古く、また最も美しいとされています。類似する建築としては、奈良・興福寺の北円堂が挙げられます。堂内には有名な本尊・観世音菩薩像、行信僧都坐像、道詮律師坐像が安置されています。
観世音菩薩立像[国宝] 古くから聖徳太子が自ら等身大で彫られた像と伝えられる、大変貴重な霊像です。木造塗箔で高さは約1.97メートル。一木彫りで作られており、宝冠や宝珠、水焔の装飾にのみ金属が使われています。全体的に平坦で彫刻の痕跡は浅く、直立した姿勢と左右対称の均整が美しい像です。衣の模様も直線を基調とし、重ねられた天衣が独特のスタイルを作り出しています。この像は止利式に属し、崇高な雰囲気に満ちています。装飾品の透かし彫りや光背の彫刻も非常に精巧で、推古朝(飛鳥時代)の造像として最高峰の作品といえます。この秘仏はかつてほとんど公開されることがありませんでしたが、現在では毎年、春(4月1日~5月15日)と秋(10月22日~11月20日)の期間に特別開扉されます。
聖観音立像[国宝] 夢殿の本尊の前に安置されている像です。一木彫りで高さ約1.45メートルあり、藤原時代の作品です。胡粉を塗った地に繧繝彩色や截金模様が施されており、華麗な仕上がりです。
行信僧都坐像[国宝] 夢殿の須弥壇上に安置されている像です。乾漆造で高さ約91センチメートル。力強い骨格とふくよかな肉体の表現が見事で、特に眉目には剛健さが感じられます。奈良時代の宗教界で活躍した行信僧都の肖像として、その偉大さを見事に表現しています。この像は、天平時代の肖像彫刻の傑作とされ、行信僧都の功績を讃え追善のために制作されたものです。
道詮律師坐像[国宝] この像は、行信僧都の像と向かい合う形で安置されています。塑像で、高さは約88センチメートル。一木から彫り出された見事な彫刻で、乾漆塑像の時代が終わり、木彫が全盛を迎えた貞観時代(平安時代、860~880年頃)の作品です。この像には、塑像の復活が見られると同時に、塑像彫刻としての最後の傑作とも言われています。道詮律師は貞観年間に法隆寺の再建と修復に尽力した人物であり、この像はその功績を称えるために作られました。
阿弥陀如来坐像[国宝] 木造で漆箔が施されており、高さは約36センチメートルです。藤原時代(平安時代、900~1185年頃)の作品です。
聖徳太子立像[国宝] 木造彩色で、聖徳太子16歳の姿を表した立像です。高さは約76センチメートルで、鎌倉時代末期(1300年頃)の作品です。現在、厨子の中に納められています。
舎利殿及び絵殿[国宝] 夢殿の後方に位置し、東西に連なる一棟の建物です。承久年間(鎌倉時代、1219~1221年頃)に建立された建築で、絵殿には木造漆箔の十一面観音立像と聖徳太子7歳の御像が安置されています。また、舎利殿には厨子に納められた舎利と聖徳太子7歳の御像が安置されています。
聖徳太子坐像[国宝] 絵殿の本尊として安置されている像です。厨子の中に収められており、寄木造で内刳(中を刳り抜く技法)が施され、彩色されています。高さは約58センチメートル。黄丹の袍をまとい、胸に垂れる美豆良を持つ尊い姿が特徴です。左手に唐草文が描かれた団扇を持ち、右手を膝に置いて端然と座る童形の像で、聖徳太子7歳の御像とされています。
聖霊会では、この厨子を長柄に乗せて供養の行列を行い、講堂に移して法会が営まれる伝統があります。衣文は簡潔で優雅に描かれ、袍には丸華文が彩色されており、藤原彫刻の特徴が見られます。胎内には以下のような墨書銘があり、製作年代や作者が明記されています。
唵阿噓哩迦娑婆呵
仏師僧円快
絵師秦致貞
敬白
奉造聖徳太子御童子形御影
高三尺六寸一体事
右始自太子生年壬辰及治暦五年五百五歳事偏為自
他法界共成仏道法隆寺大衆為結縁所法奉造顕
也如右敬白
治暦五年(平安時代、1069年)歳次己酉二月五日
奉修復御手拝衣装等
永徳四年(室町時代、1384年)甲子二月十七日
北室住持 民部公
奉行比丘湛誉仏師舜慶
比丘印秀
伝法堂[国宝] 伝法堂は舍利殿および絵殿の後方に位置し、東院伽藍の講堂です。もとは行信大僧都の伝法弘通の道場であり、橘夫人の旧宅を移築して建てたものとされています。建物は七間四面の単層屋根切妻造りで、内部は中央の五間二面を内陣とし、内陣後方には長い須弥壇が設けられ、多数の仏像が安置されています。以下に主要な仏像をご紹介します。
- 阿弥陀三尊像(三軀)須弥壇の中央に安置された伝法堂の本尊です。乾漆造で、中尊は坐像、高さ約1.24メートル。台座には現在、蓮弁が欠けています。脇侍は立像で、それぞれ高さ約1.6メートル。いずれも天平末期から平安初期にかけての過渡期に制作されたもので、衣紋に稜角があり、姿勢には剛健な雰囲気が見られます。
- 阿弥陀三尊像(三軀)木心乾漆造で、中尊坐像は高さ約1.19メートル、観音像は約1.28メートル、勢至像は約1.19メートルです。いずれも重厚な作風で、傳法堂様式を継承した平安初期の作品とされ、堂内に厳粛な雰囲気を漂わせています。
- 釈迦如来坐像(一軀)木造漆箔で、高さ約0.87メートル。円満な表情が特徴的な藤原時代の作で、台座も優美で温雅な藤原時代の特徴を備えています。
- 阿弥陀如来坐像(一軀)本尊の向かって左に安置されています。木心乾漆造で高さ約1.2メートル。この像も重厚な傳法堂様式を伝える平安初期の作です。
- 観音菩薩立像(一軀)木心乾漆造で高さ約1.59メートル。西の間に安置されている阿弥陀如来像の脇侍で、堂内乾漆仏像の中で最大のものです。天平末期の作とされています。
- 阿閣如来坐像(一軀)木造漆箔で高さ約1.19メートル。藤原末期に制作された典雅な像です。
- 阿弥陀如来坐像(一軀)木造着色で高さ約0.89メートル。須弥壇の西端に安置された平安時代の作です。
- 薬師如来坐像(一軀)木造漆箔で高さ約0.82メートル。この像も傳法堂様式の一例です。
- 十一面観音立像(一軀)木造漆箔で高さ約1.77メートル。簡素ながらも藤原末期の特徴を備えた像です。
- 不動明王像(一軀)木造着色で、鎌倉時代の作です。写実性は乏しいものの、古い様式を継承しています。
- 梵天・帝釈天像(二軀)木造着色で、高さはいずれも約1.63メートル。帝釈天像には「保元元年(平安時代、1156年)五月造功」の墨書銘があり、藤原末期の優雅な作です。梵天像には銘はありませんが、彫刻の技法に優れ、藤原初期の作と考えられます。
- 四天王像(四軀)木造着色で、高さ約0.88~0.97メートル。鎌倉時代の天部像のような躍動感はありませんが、典雅な雰囲気を持ち、壇上の他の仏像と調和する藤原末期の作と考えられます。
- 阿弥陀如来坐像(一軀)木造漆箔で高さ約0.55メートル。簡素ながら厳かな雰囲気を持つ平安時代の作です。
- 十一面観世音菩薩立像(一軀)木造漆箔で高さ約0.73メートル。前述の阿弥陀像と同様の形式を持つ像です。
東院鐘楼[国宝] 伝法堂の西側に位置し、鎌倉時代に建築されました。側面から見た姿が非常に美しい建物で、国宝の梵鐘が掛けられています。
令和に見に行くなら
- 名称
- 法隆寺
- かな
- ほうりゅうじ
- 種別
- 見所・観光
- 状態
- 現存し見学できる
- 住所
- 奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺山内1-1
- 参照
- 参考サイト(外部リンク)
日本案内記原文
[法相宗大本山] 法隆寺驛の北二粁、法隆寺にあり、自動車の便がある。當寺は用明天皇御不豫御平癒祈請の爲に建立を誓願せられたが、果さずして崩じ給うたから、推古天皇と聖德太子がその御發願の遺志を繼いで創建せられた。この地はもと斑鳩の里と稱し、聖德太子が前からこゝに宮室を營みて居住せられ斑鳩宮と稱せられた。それで寺を斑鳩寺とも鶴寺とも書かれてあるが、正しくは法隆學問寺である。聖德太子の創立せられた寺は、法隆寺以外四天王寺(大阪)、中宮寺(法隆寺の東)、橘寺(大和)、蜂岡寺(山城今の廣隆寺)、池後寺(大和今の法起寺)、葛城寺(大和今は廢絕)等があるが、當時の遺構をよく今に存するは獨りこの法隆寺あるのみである。勿論天智天皇九年罹災和銅元年再建の說もあるが、縱令それであつても天平式と判然異なつた飛鳥樣式をその儘に、創建當時の佛像と共に、一千三百年後の今日世界最古の木造建築が現存することは、眞に驚嘆すべき一大奇蹟である。
斑鳩宮は聖德太子遷化し給ひし後、蘇我氏の爲に御子孫上宮家の滅亡と共に全く荒廢して終つたので、天平十一年行信大僧都の奏聞によつて斑鳩宮の舊址に東院が創立され、八角圓堂卽ち夢殿が建てられ、寺運の興隆を致した。その後汚隆常ならず、漸く年を經て東院の諸堂また荒廢したので、貞觀元年道詮律師の勸進に依りて、諸堂の大修理が行はれた。後三條天皇の初年より稍活動の運に向ひ寺運の回復なりしも、後源平の亂を經て次第に衰へ、東西兩院の堂宇また破壊したが、鎌倉時代に大修繕が加へられて大に復興した。慶長九年には豐臣秀賴の發願により、片桐旦元を奉行としてまた大修理が行はれ、元祿九年に將軍綱吉の生母桂昌院が願主となり、更に大修繕が施されて今日に至つて居る。大正十三年には故元帥久邇宮邦彥親王を總裁として財團法人聖德太子奉讃會が設立され聖德太子の偉德鴻業の奉讃講明に努めて居る。また政府は國庫から廿九萬餘圓を支出して完全なる水道を敷設して境內建物の防火施設をなした。當寺の伽藍の配置は百濟樣と稱し、その特徴は中門を入ると左右に金堂と塔と相對立し、その周りに步廊が廻り、奧正面に講堂を置き、廻廊の外に鐘樓、經樓が對峙し、更に三面僧房を以て圍つたのであつたが、今の講堂はその位置が中古後退したので、現在の如き配置となつた。さて天平年間に現存して居た西院伽藍の主要建物は、天平十九年の法隆寺流記資財帳によると、四方各一百丈の地に佛門二口、僧門三口、塔一基、金堂一口、食堂一口、廡廊一廻、鐘樓、經樓、僧房四口、溫室一口、大衆院屋十一口、その他倉庫等が揭げられて居るが、その中に講堂の記載の無いのは最初の講堂燒失後、この時にはまだ出來て居なかつたものと思はれる。
現存の法隆寺伽藍は西院と東院に分かれ、西院は金堂、五重塔婆、中門等の諸堂を中心として一廓をなして居る。東院は夢殿を中心として西院に東隣せる諸堂の一廓である。これ等諸堂の建築は推古時代より近世に及び、また佛像什寶類は推古時代以降各時代に於ける佛教藥術を徵すべき貴重なる遺品である。
西院には國寶建造物として南大門、新堂、中門、廻廊、金堂、五重塔婆、鐘樓、經樓、講堂、上御堂、綱封藏、三經院及西室、西圓堂、聖靈院及東室、食堂、細殿、及東大門がある。
南大門[國寶] 法隆寺外郭の總門で、當寺の創建と同時に經營されたことは疑ひなく、現存のものは永享十一年の再建卽ち室町時代の建築で、單層入母屋造三間一戶の八脚門で、形態のよく備つた建築である。
新堂[國寶] 南大門を入りて寺務所の北、西園院にある。單層入母屋造三間三面の小持佛堂である。鎌倉時代の建築で、棟札に「新堂院棟上弘安七季甲申七月二日勸進上人圓覺大工橘國繼」と記されて居る。優秀なる手法になれる須彌壇の上に本尊藥師如來兩脇侍像三軀と四天王像が四軀安置されて居るが、何れも藤原時代の作で國寶に指定されて居る。
護摩堂 西園院の前にあり、堂は江戶時代の建築であるが、本尊木造不動明王及二童子立像三軀は國寶で二童子の臺座に康曆二年舜慶作清支彩色の銘がある。木造弘法大師坐像も國寶で、胎內に應安八年三月慶秀等造立の銘がある。
中門[國寶] 主要伽藍の正面に建つ四間三面二戶の樓門である。左右の間に仁王像が安置され、中二間が中央の柱によつて二戶の入口となつて居るのは、特異の形式である。細部の手法樣式は金堂と同一で、全體の形態莊重にして安定、各部の均衡極めて整正にして、樓門建築として實に稀代の傑作である。左右の仁王像卽ち金剛力士立像は、頭部のみが塑像で他は總て木彫である。後世の補修が甚しい爲に、頗る見劣りがするが、製作は和銅頃とすべきである。
廻廊[國寶] 桁行八十五間、梁間一間、單層屋根本瓦葺、構造飛鳥式である。中門の左右より起りて東西に延び、北折して更に內に屈折、鐘樓、經樓を貫きて講堂の兩脇に及び、凸字形をなして內に金堂及五重塔婆を圍んで居る。步廊が內に屈折して更に北折するあたりから先は藤原時代の改造になり、飛鳥時代に屬する他の部分とは柱を初め細部に著しい相違がある。
金堂[國寶] 二重石壇の上に建つ、その上壇は當初のまゝの凝灰岩樣の石材を用ゐて、下壇は何時の頃よりか花崗岩に取替へられて居る。石壇を二重にすることも飛鳥時代の形式である。堂は下層五間四面、上層四間三面の重層の大建築で、屋根入母屋造本瓦葺である。下層四周の裳層は和銅年間頃に附加され、また裳層の上で四隅の屋根を支へて居る獸形、龍の卷きついた支柱、兩妻の飾等は何れも江戶時代の大修理の際附加されたものである。上下兩層の差額が大なのは、聳拔の觀を著しくすると共に安定の感を强からしめ、軒の出を深くしてその反を强くし、これを受けるに雲形曲線の繰形を付けた雲肘木雲斗の構架を以てしたるその自由にして活達なる手法は鬼神の業かと思はるゝのである。更に上層に圍らす組勾欄に於ける腰組三斗間の割束地覆平桁間の卍字崩組子等飛鳥時代建築の特徴を發揮し、その外形姿態の莊重にして、しかも整美せる、如何に本願聖德太子の思帶の非凡にして藝術味の豐富にましませしかに驚嘆せざるを得ないのである。當代の特徵である何の細工も施されない高さ十尺、巾三尺の一枚板の大扉を見て內部に入れば、更に飛鳥樣式が眼前に展開せられる。美事に列ぶ太い圓柱は、氣持の好い膨みを持つ爲に、非常に落着いた感がする。柱上は三斗で、柱と大斗との中間に皿斗がある。桝組に雲斗及雲形肘木を用ゐ、その刳り方に獨得の趣好がある。中央三間二面を內陣とし、周り一間通りを外陣とする。天井は外陣組入、內陣は折上組入、格間と支輪間に胡粉地に蓮花文や寶相花唐草を彩畫してある。床は現在漆喰叩で、內陣全部白漆喰塗の須彌壇、それを廻らせる朱塗の擬寶珠勾欄は共に江戶時代のものである。壇上には諸尊の像が安置されて居る。天井下周りの小壁と外陣の四壁には有名な壁畫がある。
金堂壁畫[國寶] この壁畫は實に日本繪畫史上極めて貴重な遺作である。その主要部は金堂外陣の四方、十二面の壁に描かれて居る。畫題については異說があつて一定してない。西壁の阿彌陀佛卽ち無量壽佛の淨土には異論はないが、東壁と北方東寄の壁及び西寄の壁に描かれた淨土に就ては、寶生(東)藥師(北の東)釋迦(北の西)とも、また金光明經の四佛、無量壽寶生、阿閦、微妙聲と云ふ說もあるが、金堂の本尊を何れに定むるかゞ先決問題で俄に斷定し難い。他の八面の小壁には八菩薩の像が描かれて居る。製作の手法は藁、土、小砂利を混ぜた下塗りの上に、幾重にも土を塗り重ね、白土を塗りあげた後、膠で溶いた顏料を以て描いたものと云はれて居る。その畫は佛像の儀軌の出來る以前であるから、各尊の形態とその配列が頗る自由であつて、壁畫として裝飾的效果を充分に擧げて居る。尙佛菩薩の面貌と服飾にも特異のものがあつて、遙に西域藝術に一脈相通ずるものがある。然してその構圖の雄大、佛菩薩の面相容姿に於ける寫實と理想の驚異すべき調和、宗教的精神の偉大と、藝術的形象の美趣とを併せて感受せしむることに於て、かく迄に優越せる作品は殆んど絕無といふべく、就中西方の阿彌陀淨土大壁面は殊に傑出して居て、幸にも剝落が最も少く、これに對すれば魏々たる如來の光顏を仰ぎ殊勝希有なる兩脇侍の溫容に接するのである。筆者に就ては古來止利或は曇徴となす傳說もあるが、製作年代を裳層附加の和銅年間とすべきであるから、兩者何れも不明に屬するものである。
藥師如來坐像[國寶] 金銅、須彌壇の正面、向つて右側に安置されて居る。高さ二尺七分、光背高さ二尺六寸三分、その光背の裏面に次の刻書銘がある。
池邊大宮治天下天皇大御身勞賜時歲
次丙午年 召於大王天皇與太子而誓願賜我大
御病太平欲坐 故將造寺藥師像作仕奉詔然
當時崩賜造不堪者小治田大宮治天下大王天
皇及東宮聖王大命受賜而歲次丁卯年仕奉
卽ち用明天皇が卽位元年に病に罹らせ給うたので、天皇は推古天皇と聖德太子を召して、御平癒祈願のため佛寺を建て、藥師像を造ることを議らせ給うたが、翌年四月天皇は崩御されたので、推古天皇と聖德太子は遺詔を奉じて、推古天皇卽位十五年にこの像を敬造し給うたのであつて、法隆寺の創建と共に、この像の造られた由來が明かにせられると共に、造像銘として最古のものである。また像も光背も共に北魏式であるが、かくまで形態の整美したもの、また銅造としてかくの如く大なるものは、支那にも皆無で、東洋佛像中最も貴重なるものゝ一である。
脇侍立像[國寶] 金銅、前揭本尊藥師如來の脇侍として左右に日光月光兩菩薩と稱する像が立つて居るが、本尊は元來一尊像であつたのに後から添へられたもので形式も稍々後のものである。
釋迦如來坐像及同脇侍立像[國寶] 金銅、須彌壇正面の中央に安置されて居る。中尊は高さ二尺八寸五分、光背五尺四寸二分、右脇侍高三尺一寸、左脇侍高さ三尺三分ある。造像の由來は中尊光背裏の左記の銘によつて明かに知られる。
法興元卅一年歲次辛己十二月鬼
前太后崩明年正月廿二日上宮法
皇枕病弗愈于食王后仍以勞疾並
着於床時王后王子等及與諸臣深
懷愁毒共相發願仰依三寶當造釋
像尺寸王身蒙此願力轉病延壽安
住世間若是定業以背世者往登淨
土早昇妙果二月廿一日癸酉王后
卽世翌日法皇登退癸未年三月中
如願敬造釋迦尊像並俠侍及莊嚴
具竟乘斯微福信道智識現在安隱
出生入死隨奉三主紹隆三寶遂共
彼岸普遍六道法界含識得脫苦緣
同趣菩提使司馬鞍首止利佛師造
卽ち推古天皇廿九年十二月に、聖德太子の母后が崩ぜられ、翌年正月廿二日聖德太子が病に臥し給ひ、次で膳王后また勞疾を以て起ち給はずなつたから、王后橘大郞女王、王子等及諸臣と深く愁ひ給ひ、三寶に歸依し太子と尺寸相等しき釋迦像を造らんことを發願せられたが、王后太子相次いが登退し給うたので、推古天皇の三十一年にその願を果さんが爲めに、鞍作止利をしてこの像を造らしめられたのである。
この釋迦三尊像と前記藥師像とは相互の形式手法が非常によく似て居り、一見同一作者の手に成つたものであるべきことが看取される。されど司馬鞍首止利佛師の確證ある作品は、幾多遺存する造像の中に就てこの像を推すの外はない。而して北魏樣式造像の最も優秀なる作品にして、藥師如來像よりも更に一步を超越して整美安住の域に達し、各部の曲線悠揚自在にして所謂止利式佛像の偉大なる典型である。
阿彌陀三尊像[國寶] 金銅、須彌壇の向つて左にある。中尊高さ二尺一寸、脇侍高さ各一尺八寸、大體の形狀は前の二組の佛像に似て居るが、光背以外は推古時代の手法とは全然異り、全く鎌倉時代獨特の寫實的作風に成つて居る。それは中尊の光背裏にある左の刻銘によると最初の佛像は承德二年盗難にかゝり、その後百餘年を經て寛喜三年にこの像の再造されたことが明かにされて居る。然してまた運慶の子として知られた康勝在銘の唯一のもので、しかもかく勝れた作品を確實に遺存することは藝術史上珍重すべきである。またこの三尊の中向つて右の脇侍は姿態傷雅にして刀法精妙、奈良時代初期の優秀なる作である。
奉鑄顯
觀世音菩薩
阿彌陀如來
大勢至菩薩
右去承德年中白波入金堂侵佛像盜道具
自爾以降一百餘歲寺僧等每見須彌座之空
殘屢悲端嚴像之永隱非啻一寺之含悲爭无四
隣之傷意依新勸進十方施主磨瑩三尊聖容
于時寛喜三辛卯三月八日所催僧正範圓寺務之時如鑄之
貞永元年壬辰八月五日法印權大僧都覺遍寺務之時仕奉之仰願
本師阿彌陀伏乞本願聖靈納受面面懇志不空
各結緣然則斷興修善之道漸以滿足矣
貞永元年八月 日
大勸進僧觀俊
大佛師法橋康勝
銅工平國文
天蓋[國寶] 木造、前記諸像三座の上に吊されて居るものである。中央釋迦像の上のと、西阿彌陀像の上のとは推古時代の作で、東藥師像の上のは鎌倉時代天福年間の模造である。
古式の方の天蓋は屋蓋に二段の廂を出し、軒には透彫光背を負へる木彫音聲飛天を竝べ、四隅に金銅透彫光背形立飾出を立て、その軒周りは鱗形三角形の文樣を表はし、それに木彫の鳳凰を附し、下には蝶結び七寶繫ぎの垂飾を木または吹き玉で造り出し、足に平鈴を垂れて居る。內面には小組格天井支輪小壁等ありて、格間には寶相華文、支輪間には蓮唐草、小壁形には山に松樹の彩畫が施されてある。實に雄大華麗にして古今獨步の天蓋である。
新作の天蓋は形式は古制をとりながら、手法は全く鎌倉時代の新樣式を現はし、優劣の甚しきものがある。
四天王立像[國寶] 木造、須彌壇の四隅に安置されて居る。高各四尺三寸餘、我が國最古の四天王像で、その直立正視の姿態、衣文の彫法等によく推古式彫刻の特徵を現し、製作の簡古、形狀の奇異、頗る後世の四天王像とその趣を異にするものがある。廣目、多聞二天の光背に刻銘があり、廣目天には「山口大口費上而次木閈二人作也」多聞天には「藥師德保上而鐵師司古二人作」とある。山口大口費は日本書紀白雉元年の條に「是歳漢山口直大口奉詔刻千佛像」とある。
毘沙門天、吉祥天兩立像[國寶] 木造、毘沙門天は高さ四尺八分、吉祥天は高さ三尺八寸六分ある。
今この兩像の金堂內釋迦佛の左右に在るのは正しく最勝會の本尊として作られ、白河天皇承曆二年に安置されたのであつて、類似の像他に存せないのである。二軀共に濃彩の藻文を施した爲めに刻鏤の痕、刀法の快を見ることは出來ないが、姿態圓滿面貌優美裝飾の豐麗と相俟つて優婉の趣がある。藤原時代に最も盛に應用せられた截金七寶文樣が毘沙門天の肩に施され、立涌形に菱形文が吉祥天の紐帶に見られる。
普賢延命坐像[國寶] 木造、高さ三尺三分、平安時代初期の木像としては、野山金堂のそれが燒失せる今日唯一の遺品であり、現存する最古の彫像である。像は一木造、手法謹嚴にして粗剛、增益延壽の修法本尊として加持力の包藏をその姿態に現はして居る。寶珠形二重光背また同時の作にして鮮麗なる繧綱彩色を一部分存して居る。
觀世音菩薩立像[國寶] 木造、高さ五尺四寸六分、姿態直立不動、各部の權衡頗る整美、藤原初期の作にして、未だ優柔の作風に染まぬものである。
聖觀音立像[國寶] 木造、高さ六尺五分、藤原初期の作であるが、寶冠は唐式を存し、髮筋を一々彫刻して居る。その姿勢特に麗はしく、全身に施彩し截金を用ゐ、大花丸紋を散らして居る。臺座二重光背共に國寶である。
橘夫人厨子及阿彌陀三尊像[國寶] 須彌壇北側にある厨子の內の本尊阿彌陀三尊が光明皇后の御母橘三千代夫人の念持佛であつたと云ふので厨子をかく稱する。高さ九尺二寸二分、臺座、龕、天蓋の三部から成つて居る。
阿彌陀三尊像[國寶] 金銅製、中尊高さ一尺一寸、兩脇侍高さ各八寸九分、この三尊佛は方形の金銅板から挺出した三莖の蓮花臺上に安置され、その金銅板の表面には、一面に波文の間に蓮葉の浮ぶ蓮池を薄肉彫で現はして居る。三尊の背後には三枚の金銅板より成れる屏障があり、その上邊を波狀に形どり、表面には菩薩形五體と上方に化佛七體を流麗な浮彫にし菩薩は同じく池中より挺出する蓮花に各違つた姿態で坐し、何れも本尊を譜仰して居る。飄々として舞上る菩薩の天衣と、高く伸び上つた蓮莖が裝飾的に屏障面を塡めて居る。中尊の光背は屏障に取り付けられて居るが、その作精緻を極め、中央に單瓣蓮花文を現はし、周圍には羅網のやうな透彫更にその外周に忍冬文と水文とを絡合せた暢達な透彫など、實に意匠が卓拔で、技巧が秀絕で、優麗雅致の美を發揮して居る。かゝる殊妙の莊嚴を具へた本尊は相好圓滿、姿態優美、慈悲の溫容がよく表現され、衣文も前時代の硬直がなくて流暢となり、兩脇侍も寶冠や瓔珞裙衣まで尤も輕妙な作技を示し、明かに初唐の影響を示せる奈良時代初期の作である。龕の扉には菩薩四天王金剛力士等を密陀僧で描いて居るが、その面貌豐麗にして表情に富み、姿態自由にして優美となり、體軀四肢權衡を得、衣文の線條流麗溫雅なるは、正しく前代佛像の面目を一新して居る。臺座の四方には胡粉地の上に自由な構想を以て菩薩聲聞などが描かれて居る。それ等は全く初唐の形式に屬し、金堂の壁畫の流にして更に精練と圓熟とを加へたものである。
觀世音菩薩立像[國寶] 金堂須彌壇後部玉蟲厨子の傍に安置されて居る。木造著色高さ六尺九寸、百濟から貢献されたと云ふので百濟觀音の名を以て著はれ、夢殿の聖觀音像と共に木造推古佛中最も傑出せる遺作の一である。その丈け特に細高く、總身扁平で左右の腕にかゝれる天衣も夢殿觀音の如く著しき鰭狀をなさずまた兩肩にかゝる垂髪も厳手形にあらずして波紐狀をなし、幾分寫實的になつて居る、裳の襞を現はせる線の縱に規則正しく併列して流れて居るのはその細長き姿勢の整美な感を一層深めると共に、上體の曲線や屈伸せる左右兩手と相俟つて、直立の姿に優美な曲線美を强調して名狀し難い崇高優美な趣を現して居る。光背の支柱を竹幹に模したのも珍稀で、中宮寺の本尊にその例を見るのみである。臺座の五角形であることも特異のことである。
玉蟲厨子[國寶] 須彌壇東側に安置されて居る。高さ七尺七寸、厨子は鴟尾をあげた寶殿が、腰細な高い臺座の上にのせられて居る。推古時代の建築及び繪畫を徵すべき極めて重要な資料である。柱その他の裝飾には推古時代獨特の忍冬文を主調とした模樣の銅鐵金透彫の金具が用ゐられ、その透彫金具の下に玉蟲の羽根が伏せられてあるので玉蟲厨子と稱せられる。寶殿は屋根が四注の上に切妻をのせた樣な一種變つた入母屋造で錣葺になつて居る。棟の兩端の鴟尾は古式であるが模造である。
金堂の大屋根は後世改造せられて居るから、原形を想像するにはこの寶殿の屋根を參考すべきである。また皿斗付大斗雲斗雲肘木等全く金堂と同一式である。厨子と臺座の四方には密陀僧で描かれた繪がある。寶殿の扉には正面に二天、側面に菩薩像を描き、後壁には山上に三基の寶塔、日月、洞窟中の羅漢、飛天、鳳凰等が描かれ、臺座の四面には舍利供養圖、餓虎投身圖施身聞偈圖が描かれて居る。圖樣奇古であるが、說話の時間的變化を巧に畫面に配列し、その描法は生動の趣に富み、裝飾的效果を擧げて居る。實に天壽國曼茶羅と共に我が國最古の佛畫の双璧である。中に安置してある本尊は製作年代の下るものである。
伏藏 金堂の外陣北東隅に漆喰で固めた饅頭形のものがある。これは鎭壇と稱するものであるが、普通には伏藏と呼び、珍寶が埋納されて居ると云ふ。
五重塔婆[國寶] 金堂と東西に相竝び、二重石壇の上に立てる三間五層の塔婆で、樣式は全く金堂と同一である。高さの割合に初層の面積が大きく、各層軒の出深くして且出方に變化があり、屋根の勾配緩く、九輪の釣合よく(塔の高さの三分一)、これが爲に安定莊重の外觀を示し、加ふるにその大膽なる軒、雄麗なる組物高雅なる高欄、秀美なる相輪は、上下相應じて最も善美な權衡と諧調とを示して居る。實にこの塔は海內最古最善の塔である。塔の高さ百五尺二寸、初層の裳層は和銅頃の附加である。外部の裝飾は單に丹塗としたに過ぎないが、內部は型の如く四天柱を以て內外兩陣に分れ、外陣は組入天井で、格間に蓮花文を胡粉地に極彩色で描いてある。
塑造群像[國寶] 內陣須彌壇上は土を以て須彌山を造り、その四面に維摩詰問答(東)、涅槃像(北)、舍利供養(西)、彌勒佛(南)の四つの光景が、塑造の群像によつて現はされて居る。これは我が國に現存する唯一の遺例である。壞れた像の一部は、後世の拙劣な模造と置換へられて居るが、東面の文殊菩薩維摩詰及侍者坐像十五軀、北面の涅槃釋迦佛及侍者像十九軀、西面の金棺一基、舍利塔一基、侍者坐像十五軀、南面の彌勒菩薩坐像一軀の如き、その技巧優秀にして氣品高く、何れも國寶に指定せられて居るが、若しその全體が原形のまゝ遺存して居たなら、如何に驚嘆すべきものであつたかが十分察せられる。その製作年代は和銅四年である。
大講堂[國寶] 最初の講堂は延長三年に西室、北室、三經院等と共に雷火で燒失し、正曆元年この堂を京都より移築する時に原位置より遙に後方に退かせて、北室の跡に再建されたのである。九間四面、單層、屋根入母屋造、本瓦葺、藤原時代初期稀に見る雄大な建築である。
藥師三尊像[國寶] 木造漆箔、講堂內須彌壇上に安置されて居る。中尊は高さ八尺六寸、脇侍は各高さ五尺四寸あり、一木造の名殘を存し、刀法適勁姿態雄偉、慈悲相に勇猛の氣分を含める藤原初期の大作である。
四天王像(木造)[國寶] 講堂內須彌壇の四隅に置かれて居る。高さ六尺三寸乃至六尺六寸あり、本尊藥師三尊像と同時代の作である。
經樓[國寶] 廻廊の北端に近く大講堂に向つて左にある。三間二面重層、屋根切妻本瓦葺、奈良時代の再建である。優美で力强い肘木の曲線、輕快な頭貫の調子に、よく時代が現はれて居る。
觀勒僧正坐像[國寶] 經樓內に安置されて居る。平安時代の優秀な作で、厨子に納められて居る。僧正は推古天皇の十五年、百濟から來朝した名僧である。
鐘樓[國寶] 廻廊の北端に近く經樓と相對し、大講堂に向つて右にある。三間二面の重層で、構造形式殆ど經樓に等しいが、藤原時代の建築で肘木の曲線が著しく弱くなつて居る。
銅鐘[國寶] 鐘樓にかゝれる鐘で、無銘であるが、上下帶の忍苳唐草や撞坐の蓮花文に依て、奈良時代前期の鑄造に成る最古の名鐘である。
綱封藏 寶庫で開閉に寺の三綱職の封印を要したのでかく名づける。現在の建物は室町時代のものである。藏内は三室に分れ、推古朝以來の重寶及歷代御寄進の品物を藏し、入口の中央室から右手に入つた南室に最も主要な寶物がある。今各室陳列の主要品を次に列擧する。
日光月光菩薩立像[國寶]二軀 木造、奈良時代初期の作で、鎌倉時代の廚子に納められて居る。
觀音勢至立像[國寶]二軀 金銅製、飛鳥時代の作で、もと金堂阿彌陀像の脇侍と傳へて居る。
百萬小塔、十萬節塔、一萬節塔[國寶] 百二基 百萬塔は高さ四寸五分、三重塔の形をなしたもので、九輪の下の孔に陀羅尼(印本)を容れた供養塔である。天平寶字八年惠美押勝の亂後孝謙帝の御願により十大寺に分納されたものである。この陀羅尼印本は世界最古の木版印刷として名高い。
南室
- 觀世音菩薩立像[國寶]一軀 金銅製高一尺九寸 奈良時代
- 藥師如來坐像[國寶]一軀 金銅製、高一尺一寸五分 奈良時代初期の優作
- 之面觀音立像[國寶]一軀 木造、高一尺三寸、檀像彫刻の代表的遺作である。頭飾瓔珞等滿身盛裝の莊嚴具から蓮花坐まで全く一木を以て刻鏤精緻を極め、刀法細密にして勁健、樣式典麗にして崇高、小像ではあるがその作技神に入り殆ど人間の物に非ず、蓋し唐朝式彫刻として傑出せる作品である。
- 夢違觀音立像[國寶]一軀 金銅製、高二尺九寸もと繪殿の本尊であつて惡夢を轉じて吉夢となすとの信仰から夢違觀音と呼ばれてゐる。面相に微笑を湛へ圓渾な風貌を具して居る。純唐式から稍々日本化された奈良時代初期の造像の一形式を示す優秀なる作である。
- 觀音勢至菩薩立像[國寶]二軀 木造漆箔高二尺八寸餘、奈良時代初期の作で漆箔がよく殘つて居る。
- 文殊普賢兩菩薩立像[國寶]二軀 木造高二尺八寸餘、奈良時代初期
- 如意輪觀音坐像[國寶]一軀 木造、高五寸七分、藤原末期の精巧な作で、臺座に正嘉二年の修理銘がある。
- 阿彌陀三尊像[國寶]一面 磚製、この種の磚像中唐招提寺のものと共に最も精巧他に比類なきもので唐朝の製作である。
- 十一面觀音立像[國寶]一軀 乾漆造、高約二尺五寸、天平時代
- 藥師坐像[國寶]一軀 金銅製、高一尺の小像で金色がよく殘り、八角の廚子に納められて居る。
- 彌勒菩薩坐像[國寶]一軀 木心乾漆造、高二尺、傳法堂の諸像に見る法隆寺型木心乾漆像で、乾漆造像の盛時から木彫全盛期に入らんとする過渡期である奈良時代末期に屬し、一木造の形態に乾漆の柔味ある頗る純朴な感じのする作であるが乾漆法の特色を發揮した妙技は寧ろその光背であつて、圓形と長方形とを取合はせた木心乾漆でこれに施された鳳凰、寶相華、飛雲などの模樣は極めて秀妙優美である。
- 毘沙門天像[國寶]一面 絹本著色、額裝高さ約十尺、平安時代
- 觀音菩薩立像[國寶]一軀 金銅製、高さ約二尺、飛鳥時代の作でよく金色殘存し、八角の廚子に納められて居る。
- 聖德太子立像[國寶]一面 絹本著色、聖德太子孝養の御像と稱する鎌倉時代の作である。
北室
- 本室には國寶の陳列はなく、多數の百萬塔、伎樂面、舞樂面古代釣桝等が陳列されて居る。
聖靈院(豐聰殿)[國寶] 聖德太子像の奉安は古く行はれ、始めは勸學院に於てせられ、後には綱封藏に納めたこともあつたが、堀河天皇の世に東室顛倒し、保安二年これを再建するに及び、その南端を改造して堂殿となし太子の御像を安置し、新聖皇院と號した。卽ち聖靈院である。現在の建築は鎌倉時代に改造されたもので、五間六面單層切妻本瓦葺、正面に檜皮葺の廂を設け向拜が付いて居る。聖德太子の像と脇侍山背王、茨田王、殖栗王、惠慈法師の諸像が安置されて居る。この外左右に如意輪觀音坐像及地藏菩薩立像が安置されて居る。
聖德太子及脇侍坐像五軀[國寶] 木造、正面須彌壇厨子內に太子を中央にして左右に山背王、茨田王、殖栗王の三王子と惠慈法師の坐像を配侍して居る。太子像は三十五歲の御影と稱し、束帶把笏の坐像で、高さ二尺七寸五分、御衣は一面に戴金文樣を施し、處々に大丸紋を散じて居る。眉著しく逆づり上目の据りたる威容嚴然自ら逼視すべからざるを覺ゆる。襞褶は皆柔な曲線が能く湊合して端然たる姿勢を造成して居る。
胎內には木にて蓬萊山を作れる上に、古式の金銅觀音像を安じたるを納め、別に細字の法華經二卷、維摩經及び勝鬘經一卷を一篋にして籠められてある。而して山背王像は高さ二尺六分、衲袈裟を着けて如意を持ち、殖栗王像は高さ一尺七寸五分、念珠筥を持ち劒を帶ぶ、茨田王像は高さ一尺八寸五分、太子の御劒を奉持する、惠慈法師像は高さ二尺六分、納衣香爐を持つ、かくて太子の御影が威嚴と叡智の表現の十全なるに對して、侍者の像が笑を帶びた安舒の形を現して對照の効果を收めて居る。この像は鳥羽天皇天仁年中に造り創められ、保安二年に開眼したと古記にある。その彫鏤の手法、截金裝飾の術、皆藤原後期の特色を發揮して居る。木彫の太子像としてかくまで技巧の精を盡し妙を得た作は他に類例がない。
地藏菩薩立像[國寶] 木造、高さ二尺五寸、太子像の左厨子內に安置せらる。もと橘寺にありしと云ふ。左手に寶珠を棒げず、拇指と第二指とを屈し、眉線大に開けて眼細く、口をつぼめて唇頭少しく突出する、相好は慈悲の相に滿ち、無限の愛嬌を包めり。貞觀時代の手法を存すれど、流麗自在殆ど精妙の域に達し、前代の剛健の格調漸く衰へて優婉の域に轉入せんとするもので、法華寺十一面觀音と共に精熟したる樣式の双璧である。
如意輪觀音坐像[國寶] 木造高さ三尺一寸五分、太子像の右厨子內にある。二臂如意輪であつてその珍しい形相に藤原時代の優婉な作風を現した他に類品のない像である。臺座の修理銘に「永仁三年乙未三月十日始奉修複處也爲生々世々値遇頂戴今生必得發菩提心兼二親聖靈頓之證菩提乃至法界衆生平等利益矣敬白永仁三年卯月大法師慶舜」とある。
食堂[國寶] 聖靈院の東北にある。奈良時代の建築にかゝり、我が國に現存する食堂中最古のものである。塑造の藥師像が安置されて居る。
細殿[國寶] 食堂の前面にある食堂附屬の建物で、鎌倉時代の建築である。
上御堂[國寶] 講堂の背後の丘の上にある。舍人親王の本願によつて創建されたと傳へて居るが、現存の建築は鎌倉末期の再建で桁行七間、梁間四間、單層、屋根入母屋造本瓦葺の建築である。本尊として釋迦三尊[國寶]が安置されて居る。何れも木造で中尊の高さ七尺五寸、藤原初期の大作にして、座具の裏に應安三年の銘文がある。この外四天王の立像がある。これも國寶で吉野朝時代の精巧な作で、廣目天の頸柄に文和四年の墨書銘がある。
三經院及西室[國寶] 三經院は勝鬘、維摩、法華の三經を講讀する所で、現存のものは鎌倉時代の再建である。西室は僧侶の宿所でこれも鎌倉時代の再建にかゝり、昔時の僧房建築を窺ひ知ることが出來る。
彌勒菩薩半跏像(木造)[國寶] 本像は三經院にありて唯識講說の本尊である。高さ二尺五寸、奈良時代の古風を存する平安時代初期の一木造で、唐式傳來の大寶冠を戴き、豐美の眉宇に明眸を見開き、姿態悠揚、儀軌形相の彌勒菩薩彫像として最古の名品である。
西圓堂(峰藥師)[國寶] 西室の北方、小高い丘上に建つて居る。橘夫人の本願、養老二年に創建されたが、今の建築は鎌倉時代に建築された八角圓堂である。內部は瓦數で八角柱八本を立て繫虹梁がある。內陣より外陣の一部に亘つて木造二重の須彌壇を造り、中央に奈良時代の作にかゝる丈六藥師如來の乾漆坐像[國寶]が安置されて居る。この本尊を繞つて國寶の木造十二神將立像がある。その中の二軀は藤原時代の作で、他は鎌倉時代のものである。この外に同じく國寶の地藏菩薩立像、千手觀音立像があり、何れも木造で平安時代の作である。
尙中古以來奉納された繪馬、鏡、刀劍、鍔などが堂の內外、柱虹梁、羽目、小壁等に多數かゝつて居る。
地藏堂[國寶] 西圓堂の東側の一段低い所に建つて居る。三間三面單層、屋根入母屋造瓦葺の小宇で、應安五年の棟札があり、構造樣式よく室町中期の特色を現はし、蟇股拳鼻等の彫刻が頗る美はしい。
本尊地藏菩薩半跏像[國寶] 木造高さ一尺七寸、玉眼載金模樣及極彩色を有する鎌倉時代の優秀な作である。
東大門[國寶] 西院伽藍の東門にして奈良時代の建築である。
東大門を出でて勸學院の表門[國寶]前を經て東院伽藍の靈域に達する。東院伽藍の主要堂宇は東院南門、東院西門、同廻廊、夢殿、禮堂、舍利殿及繪殿、傳法堂及鐘樓等である。
東院西門[國寶] 切妻造の四脚門で室町時代の建築である。
東院南門[國寶] 八脚切妻造、室町時代の建築で俗に不明門と稱し、東院伽藍の表門である。この門と西門を含む築地塀によつて東院の外廊が造られて居る。
東院廻廊[國寶] 夢殿の前面にある禮堂の左右より出で、中央に夢殿を圍み、後方、舍利殿、繪殿の兩側に達して居る。室町時代稀に見る步廊として名高い。
東院禮堂[國寶] 夢殿の前面にある禮堂で、鎌倉時代に再興された單層切妻造、本瓦葺の建築である。
夢殿[國寶] 天平十一年行信僧都の創建にかゝる上宮王院の本堂で、東院伽藍中最も重要な建築にして、創建當時のまゝ今日に遺存せる名建築である。二重の石壇上に建ち、我が國に現存する八角堂中最古のもので、また最も美はしい建築である。これに似て名高いものに奈良興福寺の北圓堂がある。堂内には有名な本尊觀世音菩薩像、行信僧都坐像及道詮律師坐像が安置されて居る。
觀世音菩薩立像[國寶] 古來聖德太子御自作の等身像と傳へ、非常に名高い靈像である。木造塗箔、高さ六尺五寸、一木彫成像で寶冠と持物寶珠の水焔にのみ金屬が使用せられて居る。總身扁平で刀痕極めて淺く、姿勢は直立左右均齊にして、衣文も主として直線を用ゐ、重疊した鰭狀の天衣が按排せられ、その樣式は止利式に屬し、相好姿態崇高の氣に滿ち溢れて居る。寶冠その他裝身具の透彫金具も精巧であるが、殊に寶珠形、光背の彫刻は精彩を極めて居る。推古朝の造像として木彫にかく莊嚴を極めたものなく、東洋に於ける最古の木彫として唯一無二の靈像である。この像古來秘佛として容易に開扉されなかつたが、今日は春秋二期卽ち春は四月一日より同五月十五日まで、秋は十月二十二日から十一月二十日まで特別に開扉される。
聖觀音立像[國寶] 夢殿本尊の前立にして一木彫成、高さ四尺八寸、藤原時代の作で、胡粉地に繧繝彩色及截金文樣が施されて居る。
行信僧都坐像[國寶] 夢殿の須彌壇上にある。乾漆、高さ三尺、彫法頗る自在、骨格雄偉肉身肥滿眉目の間剛邁の氣が溢れ、奈良時代の宗教界に一時活躍した英傑行信僧都の面目躍如たるものがあり、天平時代に於ける肖像彫刻の傑作である。行信は東院伽藍再興に最も盡力した功勞者であるからその追善の爲めに作られたものである。
道詮律師坐像[國寶] 行信僧都の像と對坐して居る。塑造高さ二尺九寸、一木彫成の刀法を宛ら現して居るのはいかにも乾漆塑造の時代が去つて木彫全盛期に入つた貞觀時代の作である爲めで、塑造の復活がこの像に見らるゝと同時に塑造彫刻掉尾の傑作である。道詮は貞觀年間當寺の復興修營に盡した人で、この像は卽ち當時その功を讃へるために造られたのである。
阿彌陀如來坐像[國寶] 木造漆箔高さ約一尺二寸、藤原時代の作である。
聖德太子立像[國寶] 木造彩色、十六歳の御像、高さ約二尺五寸、鎌倉末期の作で厨子に納められてある。
舍利殿及繪殿[國寶] 夢殿の後方にあり、東西に連ねて一屋をなし承久年間に建立された鎌倉時代の建築である。繪殿には木造漆箔の十一面觀音立像及聖德太子七歲の御像が安置されて居る。また舍利殿には廚子に納められた舍利及太子七歳の御像が安置されて居る。
聖德太子坐像[國寶] 繪殿の本尊で厨子に安置せられてある。寄木造内刳著彩高さ一尺九寸餘。黃丹闕腋を養け美豆良の端を胸の兩端に垂れ、左手に唐草文のある團扇を持ち、右手を膝に安じて端坐する童形の尊容で、太子七歲の御像と稱し、聖靈會に厨子のまゝ長柄の興に載せて練供養をなし、講堂に移坐して法會を營む例となつて居る。風貌端嚴にして叡智に滿ち給ひ、衣文は端正な姿態に準じて簡潔溫雅な手法で、袍には丸華文を堆く彩繪せられ、藤原彫刻の特色が窺はれる。胎内には製作年代と共に作者彩繪者の名さへ明記した左の墨書銘がある。
唵阿噓哩迦娑婆呵
佛師僧圓快
繪師秦致貞
敬白
奉造聖德太子御童子形御影
高三尺六寸一體事
右始自太子生年壬辰及治曆五年五百五歲事偏爲自
他法界共成佛道法隆寺大衆爲結緣所法奉造顯
也如右敬白
治曆五年歲次己酉二月五日
奉修復御手拜衣裳等
永德四年甲子二月十七日
北室住持 民部公
奉行比丘湛譽佛師舜慶
比丘印秀
傳法堂[國寶] 舍利殿及繪殿の後方にあり、東院伽藍の講堂にして、もと行信大僧都傳法弘通の道場で橘夫人の舊宅を移し建てたものと云ふ。七間四面、單層屋根切妻造、內部は中央五間二面を內陣とし、內陣後方に長い須彌壇を造り、多數の靈像が安置されて居る。次にその主なるものを擧げて說明する。
- 阿彌陁三尊像 三軀 須彌壇の中央に安置された傳法堂の本尊である。乾漆造、中尊は坐像で高さ四尺一寸、臺座は今蓮辨を脫落して居る。脇侍は立像で高さ各五尺三寸、何れも天平末期より平安初期に至る過渡期の作で、衣紋に稜角があり、姿勢に剛建の氣を現はして居る。
- 阿彌陁三尊像 三軀 木心乾漆造、中尊坐像高さ三尺九寸五分、觀音像高さ四尺二寸、勢至像高さ三尺九寸、何れも姿態頗る重厚にして所謂傳法堂樣式を傳へた平安初期の作で、頗る森嚴の氣に滿ちて居る。
- 釋迦如來坐像 一軀 木造漆箔、高さ二尺八寸五分、圓滿な形相を備へた藤原時代の作で、臺座も溫雅にして優美な藤原時代の形相を現してゐる。
- 阿彌陁如來坐像 一軀 本尊の向つて左に安置されて居る。本心乾漆造高さ三尺九寸八分、この像も所謂傳法堂樣式を傳へた重厚な作で、本尊と同時代の作である。
- 觀音菩薩立像 一軀 木心乾漆、高さ五尺二寸五分、西の間安置の阿彌陀如來の脇侍にして、堂内乾漆諸尊像中最も大なるもので、天平末期の作である。
- 阿閣如來坐像 一軀 木造漆箔、高さ三尺九寸五分、これも藤原末期に造られた典雅な像である。
- 阿彌陀如來坐像 一軀 木造著色、高さ二尺九寸三分、須彌壇の西端に安置された平安時代の作である。
- 藥師如來坐像 一軀 木造漆箔、高さ二尺七寸、これも傳法堂樣式の一である。
- 十一面觀音立像 一軀 木造漆箔、高さ五尺八寸三分、手法頗る簡素にして藤原末期の作である。
- 不動明王像 一軀 木造著色、鎌倉時代の作であるが、寫實味の乏しい鈍重な舊樣式を傳へた像である。
- 梵天帝釋天像 二軀 木造著色、高さ何れも約五尺四寸、帝釋天像には胎内に保元元年五月造功の墨書銘があり、藤原末期の優雅な作である。梵天像には銘は無いが、刀法に冴を示した流麗な作で、帝釋天像よりも古く、藤原初期の作と思はれる。
- 四天王像 四軀 木造著色、高さ二尺九寸乃至三尺二寸、鎌倉時代の天部像に見るやうな奮躍活動の姿態は見られないが、典雅な風を帶び、却つてよく壇上の諸尊と調和して居るのは藤原末期の作と思はれる。
- 阿彌陀如來坐像 一軀 木造漆箔、高さ一尺八寸三分、簡素であるが森嚴の氣に滿ちた平安時代の作である。
- 十一面觀世音菩薩立像 一軀 木造漆箔、高さ二尺四寸三分、前出の阿彌陀像と同一形式の像である。
東院鐘樓[國寶] 傳法堂の西側にあり、鎌倉時代の建築で、側面から見た形態が頗る美はしい。國寶の梵鐘がかゝつて居る。

