薬師寺
昭和初期のガイド文
[法相宗大本山] 大軌(近鉄)西ノ京駅から南東へ約200メートル、都跡村の唐招提寺の南に位置しています。
薬師寺は、南都七大寺の一つであり、天武天皇が即位8年(飛鳥時代、679年)に皇后の病気平癒を祈願して創建を始めた寺です。持統天皇、文武天皇の時代を経て、文武天皇2年(飛鳥時代、702年)には諸堂がほぼ完成しました。当初は高市郡木殿にありましたが、平城遷都に伴い、養老2年(奈良時代、718年)に現在の場所に移されました。
当時の薬師寺は、寺域が約12町(約1.2平方キロメートル)もあり、東塔と西塔、金堂、講堂、食堂、鐘楼、経蔵、さらに東院や西院、僧坊などを備えた大伽藍を形成していました。この壮大な規模は、大安寺、元興寺、興福寺、東大寺など他の大寺とも肩を並べ、聖武天皇や孝謙天皇が一時薬師寺に滞在されたこともあり、朝廷からの篤い信仰を受けました。
平安遷都後も南都の大寺としてその勢いを保っていましたが、室町時代の応仁の乱以降、兵火に見舞われて伽藍が焼失し、大いに衰退しました。江戸時代には徳川幕府から寺領を寄進され、さらに郡山城主の保護を受けたことで、寺の勢いを多少取り戻し、現在に至っています。
現在残っている古建築のうち、創建当初のものは、金堂の正面左手に建つ三重塔のみです。この塔はもともと金堂の前面に東西対称に配置されていたうちの東塔で、西塔は慶長2年(江戸時代、1597年)に焼失しました。金堂の前面に東西両塔を配置する形式は、奈良時代に生まれた伽藍配置の新しい形式で、法隆寺のような飛鳥時代の伽藍配置とは大きく異なっています。
また、現存する主な建築物としては、金堂、講堂、東院堂があります。東院堂は鎌倉時代の建築で、金堂と講堂は江戸時代に再建されたものです。そのほか、有名な仏足石と仏足跡歌碑を納めた仏足堂も見どころの一つです。
三重塔(東塔)[国宝] この塔は法隆寺、法起寺、法輪寺などの塔に次ぐ年代を持ち、奈良時代初期、いわゆる白鳳時代の建築として唯一現存する貴重な遺構です。初層は一辺が約5.4メートル、第二層と第三層は一辺が約3.6メートルの三重塔で、各層に裳階が付けられているため、一見すると六重塔のように見えます。初層から上層に向かうにつれて規模が徐々に縮小し、各層間に浅い屋根が配置されているため、屋根の形状が交互に大小伸縮し、独特で壮麗な輪郭を作り出しています。さらに、屋根の勾配が緩やかで軒の出が大きい点も、全体の外観に安定感を与えています。
頂上の相輪は非常に優れたバランスで高くそびえ、その形状は美しく、飛天の彫刻が施された水煙の端麗さは他に類を見ません。塔の全高は約38メートルで、形の珍しさだけでなく、全体の調和がほぼ完璧と言えるほどの完成度を持っています。この塔は、日本建築史上でも重要な位置を占め、最も秀麗な塔の一つとして評価されています。
建築の細部にも注目すべき点が多くあります。礎石には柱を支えるための工夫が施され、柱は各層とも円柱ですが、下部が太く上部が細くなる「エンタシス」というデザインが取り入れられています。裳階の柱には比較的細い角柱が使われています。また、組物には裳階に単純な三斗を用い、各層には尾垂木を持つ三手先の組物が使用されています。これは三手先組物の初期の例として重要です。
また、三手先組物が採用されたことで軒裏に小天井が設けられ、二重垂木となり、飛鳥時代の構造からさらに進歩した点も見どころです。内部の天井は折上げ組入れ天井で、唐草や唐花が極彩色で描かれています。中心には心柱があり、かつてはここに釈迦八相のうち四相を表した塑像がありましたが、現在は失われています。代わりに須弥壇には大日如来像と四天王像が安置されています。
さらに、相輪には次のような刻銘があり、薬師寺の起源を伝える貴重な資料となっています:
維清原宮馭字 天皇即位八年 庚辰之歳 建子之月 以中宮不愈 創此伽藍 而鋪金未遂 龍駕騰仙 大上天皇奉遵 前緒遂成斯業 照先皇之弘誓 光後帝之玄功 道済郡生 業伝曠劫 式旌高躅 敢勒貞金 其銘曰。巍巍蕩蕩 薬師如来 大発誓願 広運慈哀 猗㺞聖王 仰延冥助 爰飾霊宇 荘厳調御 亭亭宝刹、寂寂法城 福崇億劫 慶溢万齢
金堂 最初の金堂は享禄元年(江戸時代、1528年)の兵火で焼失し、現在のものは慶長年間(江戸時代、1596~1615年)に再建されたものです。建物自体に特筆すべき点は少ないものの、内部には著名な薬師三尊像が安置されており、訪れる価値があります。
藥師及脇侍像[国宝] この像は薬師寺の本尊として、創建当時に勅願によって作られたものです。現在の薬師寺が現在の地に移された際、高市郡の旧地から移されたと伝えられています。金銅製の三尊像で、中尊(薬師如来)は坐像で高さ約2.5メートル、両脇侍(如意輪観音と文殊菩薩)は立像で、それぞれ3メートルを超えます。本堂が焼失した際、炎と風雨の影響でかつての輝かしい金色を失いましたが、現在では美しい黒光りを放っています。大理石の壇上に据えられた独特な台座と共に、巨大で端正な三尊の姿は壮観で、他に類を見ない存在感を誇ります。初唐時代の優れた美術様式を引き継ぎ、精緻で熟成された作品であり、全体の形状は整美で柔らかな肉感をもち、衣のひだも自然で豊かです。古い仏像に見られる硬さや形式的な要素は全くなく、優美さと厳粛さを兼ね備えた見事な傑作といえます。
中尊が座す台座もまた特筆すべき存在です。その形式は法隆寺金堂の釈迦三尊像や玉虫厨子の台座と類似しています。銅製の台座には周縁に葡萄唐草文や宝玉装飾が施され、精巧で美しい造形が見られます。また、特に注目されるのは、腰部の四面に裸体の異国人(蕃人)が表現されており、下層の四方には東西南北を象徴する青龍(東)・白虎(西)・朱雀(南)・玄武(北)の四神が彫刻されています。このようにして本像は、日本のみならず世界でも評価されるべき名作となっています。
講堂 講堂は金堂の背後に位置しています。当初の講堂は天禄4年(平安時代、973年)に焼失しましたが、現在のものは文化年間(江戸時代、1804~1818年)に再建されました。堂内には国宝に指定されている本尊・薬師三尊像が安置されています。
薬師如来両脇侍像三軀[国宝] こちらも金銅製で、中尊の薬師如来は坐像で高さ約2.7メートル、両脇侍(日光菩薩と月光菩薩)は立像で、それぞれ約3メートルの高さがあります。その造形は金堂の薬師三尊像に似ていますが、やや見劣りする点があるとされています。また、一部には後世の修復が加えられていますが、奈良時代前期の唐式を伝える重要な作品です。
東院堂[国宝] 三重塔の東側に位置する建物です。「東禅院」とも呼ばれています。由緒によれば、吉備内親王が養老年間(奈良時代、717~724年)に元明天皇のために建立したと伝えられていますが、一説には養老5年(721年)に長屋王が創建したともいわれています。現在の建物は弘安8年(鎌倉時代、1285年)に再建されたもので、7間四面、単層、入母屋造りの本瓦葺きという和様建築の形式を持っています。屋根は低く、その流れは緩やかで、木材の使用は細やかで繊細な印象です。鎌倉時代の堂宇として非常に完成度の高い建築です。堂内の内陣中央には須弥壇が設置されており、その壇上中央の厨子には有名な本尊である聖観音立像が安置されています。また、四隅には四天王立像が立ち並んでいます。さらに、堂内には国宝の木造二天立像や、喜光寺所蔵の国宝木造阿弥陀如来坐像が安置されています。
聖観音立像[国宝] 金銅製で高さは約1.88メートルあります。この立像は左手を上げ、右手を垂れた姿で、蓮華座の上に立つ正面像です。微妙に表現された顔の表情や、衣のひだの優雅な曲線美など、その整った造形の妙技が見どころです。この像を支える華やかな台座もまた美しく、初唐時代の造像技術の粋を表現したものです。法隆寺の壁画と並び称されるほどの傑作で、奈良時代初期を代表する名品とされています。
二天立像[国宝] 持国天と多聞天を表す立像で、寄木造りに彩色が施されています。高さは約1.12メートルで、藤原中期の作とされます。自然な姿勢と穏やかな表情が特徴的で、その洗練された美しさが魅力です。
仏足石[国宝] 金堂に向かって左手の放生池西側にある仏足堂内に安置されています。この仏足石は釈迦如来の足跡を彫り込んだ石で、「釈迦三十二相」の一つである千輻輪をはじめとする記号が刻まれています。仏足跡の礼拝は古代インドから始まり、西域、中国を経て日本に伝わりました。この仏足石は、日本の遣唐使が中国から持ち帰った模本をもとに、天平勝宝4年(奈良時代、752年)に彫刻されたものです。現存する中で最も古い仏足石として知られています。全長約0.67メートル、幅約1.12メートル、奥行き約1.16メートルの不規則な六面体の石で、上面には千輻輪を持つ仏足が線彫りされています。また、前後左右の側面には仏足石の由来や礼拝の様子、諸行無常の偈文、仏像、草花などが刻まれています。
仏足跡歌碑[国宝] 仏足石の後ろに立つ石碑で、高さ約192.9センチメートル、幅約44.8センチメートル、厚さ約6センチメートルです。碑の表面は上下2段に分かれており、それぞれに和歌が万葉仮名で刻まれています。上段には11首、下段には10首、各和歌が1行ずつ彫られています。そのうち17首は仏足跡を敬う歌で、残りの4首は生死を嘆き歌ったものです。作者が光明皇后であると伝えられていますが、この説には確証がありません。ただし、天平時代(奈良時代、710年~794年)のものであることは間違いなく、当時の仏教信仰をうかがい知る重要な資料であり、日本の歌学史においても非常に貴重です。
- **宝物**
- 大津皇子坐像[国宝]寄木造彩色 高さ約39.4センチメートル 一体 薬師寺八幡宮に祀られていたもので、鎌倉時代の神像彫刻の一例です。丸みのあるあご、怒りの表情を持つ肩、どっしりとした体つきは、当時の仏像彫刻の影響を感じさせます。その顔つきは童児の写生を思わせ、現実の肖像以上の荘厳さが備わっており、作者の技巧がうかがえます。
- 以下の宝物は奈良国立博物館に展示されています。
- 慈恩大師像[国宝]絹本着色 一幅
- 神像[国宝]六面 板絵着色 永仁3年(鎌倉時代、1295年)堯儼筆
- 十一面観音立像[国宝]木造 三体
- 弥勒菩薩坐像[国宝]木造 一体
- 比丘八幡神坐像[国宝]木造 一体
- 神功皇后坐像[国宝]木造 一体
- 仲津姫命坐像[国宝]木造 一体
- 増一阿含経[国宝]一巻 紙本墨書 科野虫麿筆
- 大般若経[国宝]紙本墨書 全33巻
令和に見に行くなら
- 名称
- 薬師寺
- かな
- やくしじ
- 種別
- 見所・観光
- 状態
- 現存し見学できる
- 住所
- 奈良県奈良市西ノ京町457
- 参照
- 参考サイト(外部リンク)
日本案内記原文
[法相宗大本山] 同西の京の東南ニ〇〇米、都跡村唐招提寺の南方にある。
當寺は南都七大寺の一で天武天皇卽位八年、皇后の御惱平癒を祈らんがために創始する所にして、持統天皇を經て文武天皇二年に諸堂の構作略々完了した。もと高市郡木殿に在りしを平城遷都に伴うて養老二年今の所に移建された。當時の規模は寺域十二町を有し、東西兩塔、金堂、講堂、食堂、鐘樓、經藏の外東院、西院、僧坊等を加へ、一大伽藍を成し、大安、元興、興福、東大の諸大寺の列に加はり、聖武、孝謙兩帝當寺に遷御し給ひしこともありて、朝家の尊信また重きものがあつた。平安遷都の後もまた南都大寺の一として常にその勢を保ち、餘勢鎌倉時代に及びしが、室町時代に至り、應仁の亂以後兵燹に禍されて伽藍燒失しいたく衰微した。江戶時代に入り德川幕府より寺領を寄せられ、また郡山城主の保護を得て寺勢やゝ挽回し以て現今に及んで居る。
現存の古建築中移建當初のものは、金堂の正面左手に建つて居る三重塔婆のみであるが、その位置は、金堂の前面東西に一基の塔婆が相對して建つて居たその東塔で、西塔の方は慶長二年に燒失した。金堂の前面に東西兩塔を配置することは、奈良時代に生れた伽藍配置の新形式で、法隆寺に見る如き飛鳥時代の伽藍配置とは全く異つて居るのである。その他現存古建築の主なるものは金堂、講堂、東院堂等であるが、東院堂は鎌倉時代、金堂及講堂は江戶時代の再建である。この外に有名な佛足石並に佛足跡歌碑を收めた佛足堂がある。
三重塔婆(東塔)[國寶] その年代は法隆寺、法起寺、法輪寺等の塔婆に次ぐもので、奈良時代初期所謂白鳳時代の建築として唯一の遺構である。初層は方三間、第二層と第三層は方二間の三重塔婆で、各層に裳階を附けたため、一見六重塔婆の觀を呈して居る。初層より上階に至るに從つて漸次減縮し、その間に裳階の淺き屋根を存し、隨て屋根の形が每層交互に大小伸縮して奇拔雄麗の輪廓となり、加ふるに屋根の勾配緩にして軒の出多く、各層減縮の度比較的大なるを以て安定の外觀を呈する。頂上には最も適當な長さの相輪が高く聳え、その形狀秀美にして飛天を透彫にせる水煙の端麗なる他に類例がない。塔の全高百二十五尺啻に形の珍奇なるのみならず、その權衡も殆ど完美と云ふべく、塔婆中最も秀麗なるものゝ一として、我が建築史上重要な位置を占めて居る。細部についても特に注意すべく、礎石に柱を承くべき作り出を生じ、柱は各層とも圓柱で、下は太く上は細くなり、そのエンタシスは法隆寺のより減じて居る。裳階の柱には比較的細い角柱を使用して居る。桝組は裳階には單純な三斗を用ゐて居るが、各層には尾棰を有する三手先を使用して居る。これは三手先桝組の初期の實例である。また桝組が三手先になつた結果、軒裏に小天井が出來、軒が二重垂木となり、推古時代のものより構架に一段の進歩をなした。內陣は折上組入天井で唐草唐花が極彩色で描いてある。心の柱を中心にしてもとはこゝに塑土で釋迦八相中の四相が作られて居たが今は亡くなり、須彌壇の上に大日如來と四天王の像が安置されて居る。尙相輪の擦には次の刻銘があつて、當寺の緣起を述べた貴重な資料である。
維清原宮馭字 天皇卽位八年 庚辰之歲 建子之月 以中宮不愈 創此伽藍 而鋪金未遂 龍駕騰仙 大上天皇奉遵 前緒遂成斯業 照先皇之弘誓 光後帝之玄功 道濟郡生 業傳曠刧 式旌高躅 敢勒貞金 其銘曰。巍巍蕩蕩 藥師如來 大發誓願 廣運慈哀 猗㺞聖王 仰延冥助 爰餝靈宇 莊嚴調御 亭亭寶刹、寂寂法城 福崇億劫 慶溢萬齡
金堂 最初の金堂は享祿元年の兵火に燒失し、現在のは慶長年間の再建で注意に値するものではないが、堂內に著名な藥師三尊像が安置されて居る。
藥師及脇侍像[國寶] 創建當時勅願によつて出來た本尊で、當寺が今の地へ移建された時、高市の舊地から移坐されたのである。金銅の三尊像で中尊は坐像高八尺四寸、兩脇侍立像共に十尺餘、本堂炎上の爲め火焔と雨露とにその燦たる金色を失ひ、今は美はしく滑かな黑光を放ち、大理石の壇上奇拔な臺座に、巨大にして相好圓滿なる三尊相並ぶ偉觀は全く他に類例が無い。初唐の優秀な形式の粹を傳へ來りて、精練し且つ醇熟せしめたもので、形態の整美にして、衣襞の宛轉自在なる、全體の肉付豐滿にして柔か味に富み、推古佛に見る古拙と形式的硬化は全く無く、優美と嚴肅を兼ね備へた秀麗な傑作である。
中尊の坐せる臺座は特に注意を値する。その形式は法隆寺金堂の釋迦三尊及玉蟲厨子のそれと同樣であぶる。鑄銅製で臺座の周緣に施された葡萄唐草、寶玉裝飾は精巧優美にして、よく奈良朝初期の特徵を示して居る。この外特に珍らしいのは、腰部四面に裸體の蕃人を、下層の四方に靑龍(東)白虎(西)朱雀(南)玄武(北)の四神を鑄出して居ることである。かくて本像は世界に推賞さるべき作品である。
講堂 金堂の後にあり、當初の講堂は天祿四年に燒失し、現在のは文化年間の再建である。堂内に國寶の本尊藥師三尊像が安置されて居る。
藥師如來兩脇侍像三軀[國寶] 金銅製、中尊は坐像で高さ九尺、脇侍日光月光は立像で共に九尺九寸、その形態は金堂の藥師三尊像によく似て居るが、著しく遜色がある。尙所々に、後世修補の手が加へられて居るが、唐式を傳へた奈良時代前期の作である。
東院堂[國寶] 三重塔婆の東にある。東禪院とも稱し、緣起には吉備內親王が養老年間元明天皇のために造立せる所と傳へ、また一說には養老五年長屋王の創建と稱して居る。現存の建物は弘安八年の再建、七間四面、單層、屋根入母屋造本瓦葺の和樣建築である。棟低く、屋根の流れゆるやかにして、木割は寧ろ纎細である。鎌倉期の堂宇として整備完壁の建築である。內陣中央に須彌壇を設け、壇上中央の厨子內には有名な本尊聖觀音の立像が安置されて居り、四隅に四天王立像がある。その他堂內には國寳の木造二天立像及喜光寺藏の國寶木造阿彌陀如來坐像がある。
聖觀音立像[國寶] 金銅製、高六尺二寸二分、左手をあげ、右手を垂れ、蓮華座上に立てる正面像である。その面相をつくる微妙、その襞皺を設くる婉曲、この整美殊妙の靈像を載するに堂々として美麗なる華座を以てする、實にこれ初唐造像の範を直模して、その技神に入るもの、法隆寺壁畫と相對して双璧と稱すべく、奈良時代初期の大傑作である。
二天立像[國寶] 持國多聞二天の立像で寄木造著色、高さ約三尺七寸、藤原中期の作で姿態自然にして溫秀の作である。
佛足石[國寶] 金堂に向つて左手放生池の西側の佛足堂內に安置されて居る。佛足石は釋迦佛の足跡を印せる石で、釋迦三十二相の一である千輻輪その他の記號が現はされて居る。佛足跡の禮拜は古く印度に起り、西域、支那を經て日本にも傳つたのである。この佛足石は我が遣唐使の將來せし模本によつて、天平勝寶四年に彫刻したもので、現存中最古の佛足石として名高い。全長凡二尺二寸、幅凡三尺七寸、奧行凡三尺八寸二分の不規則な六面の石上面に千輻輪具足の佛足を線彫にし、前後左右の面に佛足禮拜の事、佛足石の由來、諸行無常の偈文、佛像、草花等が刻してある。
佛足跡歌碑[國寶] 佛足石の後に立てる石碑である。高六尺三寸九分、幅一尺四寸八分、厚二寸。碑の表面を上下二段に劃し、和歌が二十一首萬葉假名で刻されて居る。上段に十一首、下段に十首、各首一行に書き下されて居る。そのうち十七首は佛足跡を恭ふ歌であり、殘る四首は呵嘖生死を詠んだものである。作者を光明皇后と傳ふるも、この傳說は信じがたいが、天平時代のものであることは疑ひなく、當時に於ける佛教信仰の一端を徵すべく、また我が歌學史上珍重すべき資料である。
- 寶物
- 大津皇子坐像[國寶]寄木造彩色 高さ一尺三寸 一軀 藥師寺八幡宮に祀られたもので鎌倉時代神像彫刻の一例である。その頤太く肩の怒れる胴體は、當時の佛像彫刻の影響を示してゐる。面相は童兒の寫生の如く、かくてこの像に自ら實人の肖像以上に森嚴が加はり、作者の工夫も窺はれる。
- 左記寶物は奈良帝室博物館出陳
- 慈恩大師像[國寶]絹本著色 一幅
- 神像[國寶]六面 板繪著色 永仁三年堯儼筆
- 十一面觀音立像[國寶]木造 三軀
- 彌勒菩薩坐像[國寶]木造 一軀
- 比丘八幡神坐像[國寶]木造 一軀
- 神功皇后坐像[國寶]木造 一軀
- 仲津姬命坐像[國寶]木造 一軀
- 增臺阿含經[國寶]一卷 紙本墨書 科野虫麿筆
- 大般若經[國寶]紙本墨書 三三巻