平城宮跡

平城宮址

昭和初期のガイド文

[指定史跡] 西大寺駅の東約1キロメートル、都跡村佐紀および北新の地に位置しています。和銅3年(奈良時代、710年)、元明天皇が都をこの地に遷されてから、約70年間にわたり平城京の大内裏が置かれた場所です。内裏跡、大極殿跡、朝堂跡などの主要な遺跡が現在も残されています。内裏跡は「大宮」と呼ばれる地域に位置し、高く広い平坦な地形となっています。この地域には「内裏」や「榁」などの地名が今も残り、南には朱雀大路の跡と考えられる小道が存在します。また、北部や東部には長く続く土塁の跡を見ることができます。大極殿跡と朝堂跡は内裏跡の東南に位置します。大極殿跡には、後殿跡や東楼跡、西楼跡が付随し、それぞれ土壇が現存しています。さらにその南には朝堂跡が広がり、第一堂から第十二堂まで、やや方形を描く12の土壇が連続しています。朝堂跡の南側には、東朝集殿跡と西朝集殿跡が配置されていました。また、大極殿跡の周囲では、回廊の付属物とみられる溝底石の配置が発見され、大極殿の北方では建築基壇の遺構が見つかっています。さらに東北および西部では、ほぞ穴のある方形の礎石群も発掘されています。朝堂跡および西朝集殿跡の西側では、地中に埋没した多数の古瓦が直線状に連続して発見されました。この瓦の発見から、建物の外廂が自然に腐朽し倒壊したことが推測されています。平城京の大内裏は、平城京の最北部中央に位置し、南北に走る朱雀大路を基準に左右の京を分けています。また、この大路に平行する南北の大路によって左右の京はそれぞれ4つの坊に区画されていました。さらに、東西方向には一条から九条までの大路が造られ、その他にも北京極の大路が存在していました。右京の北には「半条北辺坊」があり、一条から五条の東には京外条坊が広がっていたとされています。現在、北京極の地には土塁の形跡が残り、旧三条大路は奈良市三条通や暗越奈良街道にその跡が認められます。一条大路跡は、東大寺転害門の前から宮跡の東方まで残っています。

※底本:『日本案内記 近畿篇 下(初版)』昭和8年(1933年)発行

令和に見に行くなら

名称
平城宮跡
かな
へいじょうきゅうあと
種別
見所・観光
状態
状態違うが見学可
備考
昭和初期には土壇等が残るのみの遺跡でしたが、平成時代から第一次大極殿等が再建整備されています。
住所
奈良県奈良市佐紀町
参照
参考サイト(外部リンク)

日本案内記原文

[指定史蹟] 同西大寺驛の東一粁都路村佐紀及び北新の地にある。和銅三年元明天皇都をこゝに遷し給うてより以來七十餘年間、平城京の大內裏の存した所で、內裏址、大極殿址及び朝堂址等の諸遺址を存して居る。內裏址は地字を大宮と呼び、高燥な廣い平坦な地域で、內裏、榁等の地名を存し、南にある小徑は朱雀路の遺址で、北部及び東部には長く斷續した土壘の遺址がある。大極殿及び朝堂址は內裏址の東南にあり、大極殿址は後殿址及び東樓址、西樓址を附屬し、各々土壇を遺存し、大極殿址の更に南にある朝堂址は第一堂から第十二堂址に至る十二の土壇稍々方形を描いて連續して存し、この南は東朝集殿及び西朝集殿址である。この外に大極殿址の周圍に廻廊に附屬したと認むべき溝底石の配置されたるを發見し、また大極殿の北方には建築基壇の遺構並に東北及び西部には枘孔のある方形の礎石群が、それぞれ發見された。また朝堂址及び西朝集殿址の西側に、一直線に地中に連續して埋沒した多數の古瓦を發掘したが、建物の外廂が自然に腐朽倒壞したことを推測せしめる狀態にあつたと云ふ。大內裏の設けられたのは平城京の最北部の中央部で、正面南北に通ずる朱雀大路を以て左右兩京に別ち、更にこれと並行して造られた南北の大路を以て兩京を各々四坊に區劃し、また別に東西に兩京を貫いた一條より九條の大路が造られた。この外に北京極の大路あり、右京の北に半條の北邊坊あり一條から五條までの東に京外條坊の區域を存したのであるが、今北京極の地に土壘の形跡殘り、また舊時の三條大路は現時の奈良市三條通から暗越奈良街道をその遺址と認むべく、一條大路の址は東大寺轉害門の前から宮址の東方まで殘存して居る。