妙喜庵
昭和初期のガイド文
山崎駅の東隣、大山崎村、天王山の東南麓にあります。室町時代の文明年間(1469~1487年)山崎宗鑑の庵室でしたが、後に禅宗の寺院となりました。その書院は文明年間の建築で、書院に接続して数寄屋があります。書院および数寄屋はいずれも国宝に指定されています。
書院は桁行二間梁間三間、単層、屋根は切妻、桟瓦葺で、垂木、舟肘木、方柱、長押など、いずれもその木割繊細にして、書院造の特徴を示しています。庭に面して広縁および落縁を付し、広濶な感を現しています。内外の仕切には腰高明障子を用い、室内を2室に分け、第一室は入口の間で六畳敷、第二室は主室で十二畳を敷き、奥壁に接して仏間を造っています。この書院の東側に接して別個の書院があります。
数寄屋は書院の左、前方に低く突き出ています。二間二面、いわゆる二帖代目の小茶室で、構造簡朴、材料も極めて質素です。すなわち柱は丸太杉を使用し、棰も自然木を用いています。室内四壁は錆壁となし、潜り上に引窓、その他に大小2個の窓あるものの薄暗く、閑寂の境地を作り、茶道に貴ぶところの幽致玄妙の趣致を出しています。この茶室は千利休の造営になり、豊臣秀吉がしばしばここに遊んだと伝えられ、桃山時代の豪華な反面における茶道の滋味を現し、利休好みの茶室の規範として茶人に尊重されています。
令和に見に行くなら
- 名称
- 妙喜庵
- かな
- みょうきあん
- 種別
- 見所・観光
- 状態
- 現存し見学できる
- 住所
- 京都府乙訓郡大山崎町大山崎小字龍光56
- 参照
- 参考サイト(外部リンク)
日本案内記原文
山崎驛の東鄰、大山崎村、天王山の東南麓にある。當庵は文明年閒山崎宗鑑の庵室であつたが、後禪宗の寺院となつた。その書院は文明年閒の建築で、書院に接續して數寄屋がある。書院及數寄屋は何れも國寶に指定されて居る。
書院は桁行二閒梁閒三閒、單層、屋根は切妻、棧瓦葺で、垂木、舟肘木、方柱、長押など、何れもその木割纖細にして、書院造の特徵を示して居る。庭に面して廣緣及落緣を附し、廣濶な感を現はして居る。內外の仕切には腰高明障子を用ゐ、室內を二室に別ち、第一室は入口の閒で六疊敷、第二室は主室で十二疊を敷き、奧壁に接して佛閒を造つて居る。この書院の東側に接して別個の書院がある。
數寄屋は書院の左、前方に低く突き出て居る、二閒二面(實尺約方二米)、所謂二帖代目の小茶室で、構造簡朴、材料も極めて質素である。卽ち柱は丸太杉を使用し、棰も自然木を用ゐて居る。室內四壁は錆壁となし、潛り上に引窓、その他に大小二個の窓あるも薄暗く、閑寂の境地を作り、茶道に貴ぶ所の幽致玄妙の趣致を出して居る。この茶室は千利休の造營に成り、豐臣秀吉屢こゝに遊んだと傳へられ、桃山時代の豪華な反面に於ける茶道の滋味を現はし、利休好茶室の規範として茶人に尊重されて居る。