鷹見泉石旧宅

鷹見泉石の舊宅及遺物
※現代の景観です。

昭和初期のガイド文

古河駅の西南約2km、古河町大字長谷町、鷹見久太郎氏の住宅がすなわち鷹見泉石の旧宅です。泉石は江戸時代後期の天明5年(1785年)古河の城下に生まれ、長じて藩主土井利位に仕え、その政治的手腕を認められました。彼は政務のかたわら洋学の研究に志し、大いに世界の事情に通じ、米艦の渡来に際してはいち早く開港説を唱えました。晩年に至り憂国の蘭学者が出入したので幕府の忌むところとなり、古河に隠退し、安政5年(1858年)に病没しました。泉石は和漢洋の三学に通じていましたが、その特色は西洋の学にあったので、その方面の蔵書が今なお少なからず残っています。特に地理地図に関するものが多く、その他外国関係の文書絵画器物など、幕末における日欧交通関係資料として貴重なものが少なくありません。家に渡辺華山筆泉石の画像を蔵しています。

※底本:『日本案内記 関東篇(初版)』昭和5年(1930年)発行

令和に見に行くなら

名称
鷹見泉石旧宅
かな
たかみせんせききゅうたく
種別
見所・観光
状態
現存し見学できる
住所
茨城県古河市中央町3-11-2
参照
参考サイト(外部リンク)

日本案内記原文

驛の西南約二粁、古河町大字長谷町鷹見久太郞氏の住宅が卽ち鷹見泉石の舊宅である。泉石は天明五年古河の城下に生れ、長じて藩主土井利位に任へ、その政治的手腕を認められた。彼は政務の傍ら洋學の硏究に志し、大に世界の事情に通じ、米艦の渡來に際しては逸早く開港說を唱へた。晚年に至り憂國の蘭學者が出入したので幕府の忌む所となり、古河に隱退し、安政五年に病歿した。泉石は和漢洋の三學に通じて居たが、その特色は西洋の學にあつたので、その方面の藏書が今尙少からず殘つて居る。殊に地理地圖に關するもの多く、その他外國關係の文書繪畫器物など、幕末に於ける日歐交通關係資料として貴重なるものが少くない。家に渡邊華山筆泉石の畫像を藏して居る。

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